第三章『絶望の先』

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 「ああ、約束してやるよ。に画像一枚、ごとに動画一つ、削除してやるよ」  突きつけられた驚愕の交換条件に、美天は一瞬頭が真っ白になった。  「データは・・・・・・全部で、何個あるの・・・・・・?」  「さあ? 俺自身も、数は正確に把握してねぇけど・・・・・・ざっと、画像だけでもくらいあったかなあ」  絶望的な未来を示唆する台詞に、今度は目の前が真っ暗になる。  死刑宣告のような言葉の意味、と己の立場を理解してから数秒後、ようやく零した自分の声は別人めいていた。  二十個もあるかないか不確かなデータを、全て削除してもらうとなれば、どれだけ巨額な費用になるのか。  手取りで、月二十八万の給料と貯蓄を合わせても、全然足りない。  美天の絶望的な眼差しから、彼女の経済的な事情と危機を察した田辺は、してやったり顔で囁いた。  「朝比奈には、ちょっと高いかもな。まあ安心しろよ、俺もお前を今すぐ無一文の家無し(ホームレス)にするほど鬼じゃない」  しかし、田辺の会心の笑みと猫撫で声は、美天をさらなる絶望へ追いやった。  「もしに困ったら、稼ぎのいいを紹介してやるよ。朝比奈の顔なら、そこそこ売れるだろ。後は愛想だな」.  もはや、美天の意識は思考だけで田辺からの一方的な言語信号を受け取り、論理的な理解に留まっていた。  果てなき絶望の先を超えた頃、既に感情は深淵へと沈み、ひたすら腐り落ちていく感覚だった。  この男は、一度自分から全てを奪っても、未だ奪い足りないのか。  自分にとって気の遠くなる数年をかけてようやく、歪なヒビやシミを残しながらも、形を取り戻してきた幸福。  しかし、それをこの男は身勝手な理由で、唾を吐いて叩き割ろうとしている。  どこまで自分を汚し貶めれば、気が済むのか。  「丁度俺の友達に、昔から朝比奈を気にしていた奴がいるんだ・・・・・・そいつなら、一発だけで十万円くらいは出してくれるかもなあ」  お願いやめて。もう、どうか許して。  これ以上自分から奪わないで。 「これで登録完了っ。あれ? 朝比奈、もう新しい男できたのか? さすが、尻軽女(ビッチ)は手が早いぜ。こりゃ、も引くのが分かるぜ」  凍直したままの美天から携帯端末を奪い、強引に連絡先を交換した田辺は、待ち受けの晴斗の写真を不躾に眺める。  侮蔑と嘲笑に満ちた台詞と共に奏でられた、元カレの懐かしい名前に、心臓が抉られる思いだ。  「じゃ、次はに金を用意してくれよ。最低三十万は欲しいかな」  「三十万・・・・・・!? ちょっと・・・・・・っ」  「俺も明々後日までに金がいるんだよ。なわけで、頑張れよ! 金も、今度の男に幻滅されないようにな!」  笑壺に入る田辺は、揚々と立ち上がる。  よろしく頼むぜ〜、と耳障りな黄色い囁きと共に、馴れ馴れしく肩を叩かれた。  田辺に触れられた場所が、不快な臭いと共に腐り汚れたような錯覚に陥る。  田辺が踵を返してバーガー店を出たのを確認した直後、美天はトイレへ駆け込んだ。  堪えていた嘔吐感もぶり返してきた。  「うぅぇ・・・・・・ぉっ、げっ、あぇあぁ・・・・・・っ」  便器の底へ滴り落ちるものを呆然と見下ろしていると、蘇ってくる。  口内から喉の入り口で暴れ回る異物感、喉から鼻腔へ充満する不快な悪臭とえぐみ。  注文してから一滴も飲めなかった紅茶で口内を洗ったが、それでも不快感は拭い去れなかった。  あの時と同じだ。  怖くて、嫌で、痛くて、苦しくて、汚くて、臭くて、気持ち悪くて・・・・・・熱くなって――それ以上に自分が、消えてしまいたかった・・・・・・。 .
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