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今日は週に一度のノー残業デー。早く帰れるとウキウキで会社を出たのは良いが、しばらくしないうちに空からパラパラと雨粒が落ちてきた。天気予報では『晴れ』と言われていたので傘は持ってきていない。なんだか嫌な予感がしつつも足早に家路を急いでいると、どんどん雨脚が強くなってきた。
「最悪……ッ!」
カバンを頭の上にかざしながら走る。浮かれていた気持ちが地に落ちる。せっかく帰りに何処か寄り道しようと思っていたのにそんな気分でも無くなってしまった。濡れた髪が肌にまとわりついて気持ち悪い。一刻も早く家に帰りたかった。
……だが、急いでいるときに限って不運なことが続くもので。
少し先の踏切から聞き慣れた音が聞こえてくる。……警報音だ。点滅する赤いランプ。ゆっくりと降りてくる黄色と黒のバー。音の直ぐ側まで辿り着く頃には踏切が完全に閉じられていた。
「……最っ悪」
思わず悪態をつく。ここの踏切はなかなか開かないことで有名だ。いつもなら時間がずれているのでかち合うことはなかったのだが、幸か不幸か早めに会社を出たので鉢合わせてしまったようだ。
恨みがましく遮断棒の向こうを睨んでいるうちに雨脚が更に強くなる。慌ててあたりを見回すと雨宿りに丁度いい古いお店があった。軒下を少し借りよう。私は軽く頭を下げてから軒下の影に入った。
「…………。」
バタバタと雨の音が強くなる。激しい雨に打たれて、お店の隣に鎮座する自動販売機が滝のように水が下へと流れ落ちていた。
「(止むのかなぁ、これ……)」
強い夕立――ゲリラ豪雨だと思うけど、これほど降られると少し不安になる。スーツが濡れて体が冷えてきたし早く家に帰って熱いシャワーが浴びたい。このままだと風邪引くだろうなぁ……そう思っていたとき、近くで水の跳ねる音が聞こえた。
「あ……」
音の方を見ると誰かがこの軒下に入り込んできた。男の子……背は高いが私より年下だろう。黒いスラックスに白いシャツ。髪は短め。スポーツでもやっているのか体格は良い方だ。高校生かな? そういえば近くに男子校があったような気がするが、そこの生徒さんだろうか。
「――――!」
ぼーっと見ていると青年と目が合った。慌てて目をそらす。……危ない危ない。あんまり見ていると不審者扱いされてしまう。最近はそういうのが厳しいのだ、『通学路に変質者がいました』なんて通報されてはたまったものではない。
雨に濡れたこととは別に体がひんやりとした。うるさい心臓を抑えつつ雨が止むのを待つ。……なんだか更に体が冷えてきた。変なことを考えたせいかな? バチがあたったのかもしれない。
「――っくしゅ」
「…………!」
寒さで私がくしゃみをするのと頭に何か乗せられるのは同時だった。
「え……」
「そのまんまじゃ、風邪ひきますよ」
低く、かすれた声。変声期特有の高いような低いような声だ。あの青年の声だ、と理解したとき急に頭を鷲掴みにされて前後左右に揺らされる。
「わっ! ……ひゃっ!?」
「あっ……ちょ、動かないでください!」
いきなりすぎて何をされているのか分からなかったが、どうやらあの青年が私の髪を拭いてくれているらしい。かなり乱暴な手付きで最初は頭をシェイクされているのかと思った。けれど私にかけてくれる声が優しいので「あ、誰かの髪を拭いたことがないんだな」とすぐに分かった。
「…………。」
されるがまま頭をかき回される。……私も、こんな風に誰かに頭を拭かれるのは久しぶりだ。幼い頃に両親にしてもらった以来じゃないだろうか。なんだかだんだん恥ずかしくなってくる。私の方が大人なのに子どもみたいで……なのに、全然嫌じゃない。それが余計に恥ずかしい。
羞恥に耐えられず彼の手を押さえる。……節くれだった大きな手だ。男の人の手。反射的に軽く握れば、びくり、と手が震えた気がした。
「あ、あの……ごめんなさい、タオルありがとう」
おずおずとお礼の言葉を述べる。彼の背が高いので見上げる形になる。……それにしても本当に大きい。首が痛くなりそう。下手すると隣の自動販売機よりも大きいかもしれない。
下からじっと彼を見つめていると、精悍な顔が徐々に崩れていく。目は見開かれて宙を彷徨い、頬は赤みを帯びていく。短い髪から飛び出た耳は先まで真っ赤になっていた。
「あ……は、い。えっと、その……よかった、です……」
暗がりでも分かるほど真っ赤になった青年は、私の顔を見てぎこちなくはにかんだ。
「う、うん……」
……私もきっと、彼に負けないくらい真っ赤になっているだろう。顔が熱くて熱くて仕方がない。心臓がどくどくうるさくなって口から吐き出してしまいそうだ。
降りしきる雨の幕の中、世界には二人だけしかいないような気がして。
――もう少しだけ、もう少しだけ。このままでいられたら良いのにな。年甲斐もなく、そんなことを思った。
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