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第2話 夏の山(2)
道はすぐに舗装されていない山道になった。
しかし手入れはされていて、下草が足に絡まることもない。
ただ、こんな夕方に神社に行ったことがないので、ちょっと緊張し、ちょっとわくわくした。
小学生の頃は特に、夕方までに山を下りないとまだ生きていた祖父や両親にひどく怒られた。
泣きながら謝り落ち込んでいると、そっと祖母がやってきて
「当麻ちゃん、本当に危ないんだよ。おばあちゃんがどんなに恐ろしいか話してあげようか」
とひどく落ち着いた声で言った。
それがいつもの柔和な祖母とはまったく違う雰囲気で、ますます恐ろしくなり、一緒に怒られた弟と震えあがり、首を高速で横に振った。
「そう。じゃあ、もう遅くならないうちに帰っておいでね」と言うと祖母はいったん去っていった。
そのあと、「ごはん前だからちょっとだけね」と小さくとがったスイカを持ってきてくれた祖母はいつもの祖母だった。
それ以降、僕たちはお山からの帰りの時間はひどく気にするようになった。
一度、遅れそうになりとにかく走って走って山を下りていたとき、転んで石の上に膝をぶつけたときの傷は、僕の右足にちょっとした痕になって残っている。
まぁ、半ズボンだったしね。
僕も高校生だし、懐中電灯を使うことなく神社の石階段まで到着した。
ここの階段、何段だったっけ。
そんなことを思いながら、上っていく。
100段以上はあったはずだ。
階段を上り切ってあったのは見慣れた神社ではなく、広い広いお屋敷の入り口のようだった。
そこに提灯を持った小さなたぬきが薄紫の着物を着て、僕の姿を見るとぺこりと頭を下げた。
「当麻様、よくいらっしゃいました。お疲れでいらっしゃいますでしょう」
子どもかと思えば、大人っぽい言葉を使うので少し驚いた。
「よろしくお願いします」
そう言って頭を下げるのが、僕には精一杯だった。
「お庭には霧が出てますので、自分が案内いたします」
そう言うとたぬきは僕の前を歩きだした。
立派な門をくぐり、たぬきとはぐれないように慌てて僕は後をついていった。
塀の内側は真っ白な霧しかなく、たぬきが持っている提灯の明かりだと心細いくらいだった。
たぬきの薄紫の着物は霧に同化するので、僕はたぬきの茶色の後ろ頭を見失わないように歩く。
下は玉砂利が敷いてあるのか、ざりざりと足音は大きく響いた。
夢中になってついていくと、霧の中からぼんやりと大きな屋敷の輪郭が見えてきた。
玄関は大きく、行ったことはないけれど老舗の高級温泉旅館のようだった。
「さあさ、お疲れ様でした。お部屋へ案内します」
たぬきはそう言って、提灯の明かりを消して畳むと、そのまま長い廊下を歩きだした。
僕は慌てて靴を脱ぎ、形ばかりそろえるとたぬきの後を追った。
こんな広いお屋敷、迷子になったら戻れなくなる。
広い広いお屋敷のどこをどう歩いたのかわからなくなった頃、たぬきが止まり、襖を開けた。
ひろーーーーーい。
何畳あるんだ。
ひろーーーーーーい。
許されるなら、声を張り上げて叫びたいくらいに広い和室だった。
「さあさ、こちらへ」
たぬきに勧められるまま、大きな座卓に床の間を背にして座った。
「どうぞ、楽にしてくださいませ」
「あ、いや」
「お茶を淹れましょうね」
慌てる僕に構わず、たぬきは綺麗な緑のお茶を淹れてくれた。小さなお饅頭もある。
そのとき、僕はやっと思い出した。
「あの、これ、つまらないものですが」
ゼリーの入った小さな紙袋をそのままたぬきに差し出す。
「まあま、お気を遣わせました。ありがとうございます。主も喜ぶと思います」
あ、あるじ?!
いやそれより、この渡し方でよかったのかな。どうなんだろう。
「少しお休みされてから、先にお風呂になさいますか。さっぱりしてからお夕食を召し上がるのがいいかもしれませんね」
「あ、はい」
「では、お風呂の用意をしてまいりますね」
たぬきは丁寧な動作で襖を引き、出て行った。
「おくつろぎくださいね」と言われたが、緊張しっぱなしだ。
座布団は紫ですごい刺繍がしてあって、ふっかふかだし。
床の間の掛け軸は高そうだし、生け花もなんだかすごそうだし。
僕はとりあえず、お茶を飲んだ。
ぬるく、出汁の味がした。
いとこたちが言っていた。
「上等なお茶はぬるい湯で淹れて、出汁の味がする」んだって。
再び現れたたぬきに案内されたのはまさかの露天風呂だった。
こんなすごいところ、僕ひとりで入っていいの?
どぎまぎしていると、「お背中お流ししましょうか」とたぬきが声をかけてきたので「いえ、大丈夫です!ひとりでできます!」と慌てて言った。
広い露天風呂は最高だった。
ごつごつした岩に囲まれた風呂からは、薄ぼんやり明るい空が見えた。
オレンジ色の淡い色からどんどんと濃い紺色に変化していく。
一番星も見つけた。
あんなにあった霧はぜんぜんない。
風がそよそよと吹き、のぼせることはなかった。
そろそろかな、と上がると、そこにたぬきが待っていた。
僕が浴衣の着方がわからなくてだらしなくしていたのを「ちょっと失礼いたしますね」と襟や布の端っこをぴっぴっと引っ張り、帯を結び直すとぴしっとなった。
それからまたさっきの部屋に戻ったら、座卓いっぱいにご馳走が並んでいた。
「うわあああ」
思わず大声を出してしまい、慌てて口を閉じた。
たぬきはにっこりとして
「気に入っていただけて、主も嬉しく思っております」と言った。
大人だったらここで酒が出てきそうだけど、やはり子どもなのでそれはなく、少し残念だった。
まず目を引くのは真っ赤で大きい伊勢海老で、あとは刺身、アワビの焼いたの、ヒラメの煮つけ、すき焼きの小鍋、山菜の和え物、天婦羅、ご飯は炊き込みごはん、小さな蕎麦、なます、あとは…よく名前の知らないものが並んでいた。
たぬきの声かけで食事を始めた。
こんな量、残してしまう!と思っていたのに、意外にもするりするりとお腹に入っていく。
普段、そこまでたくさん食べるほうではない、と思っていたけれど、最後の甘夏のはちみつ漬けまで全部食べてしまった。
たぬきはにこにこしながら僕を見ていた。
「あー、お腹いっぱい」
さすがに胃が苦しい。
「ここを片づけたら、お床を敷きましょう」と、たぬきは大きな盆を持ってきてひょいひょいと器を置くと、部屋から出ていった。
部屋からは庭が見える。
月が高く上がっていた。
夏なのに、涼しく不快感がない。
行儀が悪いと思いながら、たぬきがいなくなると僕は座卓から離れ、縁側近づくとごろりと横になった。
あ。綺麗だな。
心地よいそよ風と「清らか」という言葉がぴったりな月の光とで、僕はぼんやりと空を眺めていた。
……?
なんの曇りもなかったはずの空の一部に恐ろしい勢いで黒雲が立ち込めてきた。
僕は思わず、上半身を起こしてもっとよく見ようとした。
「がははははは。なんだなんだなんだ。いるじゃないか」
あっという間のことだった。
「あれはなんだ?」とよく見ようと身体をちょっと動かした、それだけの時間に黒雲は僕の目の前にいて、大声でしゃべり始めた。
「隠しておくなんて、各務も人が悪い」
黒雲は巨大なもふもふした毛の塊だった。
そこに顔がある。金の大きな目をぎょろりとさせて僕を見ると、もふもふの中から太い腕をにゅんと伸ばし、僕の手首をつかんだ。
そして一言も発する間もなく、乗ってきた黒い亀の背中に僕をひっぱりあげると高速で空を飛び始めた。
ちょちょちょちょちょっ。まっ。
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