もしも明日僕が死ぬとして

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 もしも、明日僕が死ぬとして  僕の死を悲しむ人はいるのだろうか?  もしも、明日僕が死ぬとして  僕の死を惜しんでくれる人はいるのだろうか?  もしも、明日僕が死ぬとして  僕の為に涙を流してくれる人はいるのだろうか?  多分いる。  そのことを苦しいと思うのは、贅沢な悩みなのだろうか?  僕は、生きているのではなく、生かされている気がする。  僕の死を悲しむ人によって生かされている気がする。  僕の死を迷惑に思う人によって生かされている気がする。  僕の死によって被害に合う人に生かされている気がする。  そのことを苦しいと思うのは、贅沢な悩みなのだろうか?  僕のように、死にたいと思って生きている人はどれくらいいるだろう?  僕のように、死んだように生きている人はどれくらいいるだろう?  それでも人は、生を謳歌することを僕らに強いるのか。  それを苦しいと思うのは、やっぱり、贅沢な悩みなのだろうか?  たまに、自分の幸福を恨むときがある。  自分が不幸でないことを嘆くときがある。  自分がもっと不幸であったらと願う時がある。  自分がもっと不幸であったら、きっとこんなにも苦しくないのに。  そんな明らかに矛盾していることを考える。  解ってもらおうとは思わない。  それでもこの感情を解って欲しいとは思う。  これも矛盾だ。  もしこの矛盾を解ってくれる人がいたら、きっと僕は生を謳歌できる気がする。  死にたいと思わずに済む気がする。  生きたいと思える気がする。  そんなことを望むのは、流石に贅沢がすぎる。  そう僕は、……思った。
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