3人が本棚に入れています
本棚に追加
第一章 発端 5
高校生たちを乗せたバスは東北自動車道から首都高速で東京を経由し、東名自動車道へと入った。
久喜白岡JCTで圏央道に入り、一気に海老名JCTまで行くコースもあったが、道が渋滞していない事もあり、生徒の希望により東京を経由することにしたのだった。
なによりも首都高コースにすると、東名自動車道〝海老名サービスエリア〟へ行くことが出来る。
その海老名サービスエリアで、一行はゆったりとした休憩を取った。
テレビ番組などで頻繁に取り上げられる、日本でも最大級の規模を誇る温泉まで備えた施設は、北関東の田舎町の高校生の目には巨大なテーマパークのように映った。
これまでもトイレのための小休憩はあったが、この海老名SAでは昼食も兼ねて一時間もの時間が取られた。
それでも足りないと生徒たちは文句を云ったが、バスは無情にも西を目指し出発する。
ここから目的地へは、そう時間はかからなかった。
伊豆半島の上っ面を通り過ぎ、相模湾沿いを進み次郎長とちびまる子ちゃんで有名な清水市を通過すると、長かったバスの旅も終点へと近づく。
清水を通る際には、バス中に〝踊るぽんぽこりん〟を合唱する声が響いた。
地方から東京周辺へ修学旅行する生徒たちが湘南の海岸線をバスが走ると、あれが江の島だ、エボシ岩だと騒ぎ〝勝手にシンドバッド〟を歌い出すのと同じだ。
静岡県川浦町、そこが合宿を行う場所の地名だった。
地理的には吉田町と牧之原市の中間に位置する、小さな海岸沿いの半農半漁の田舎町である。
元は相良町と共に榛原郡に所属していた。
江戸時代は賄賂政治で名高い田沼意次によって治められ、遠州相良藩が置かれ相良城という城まで築かれた。
歴史上悪いイメージだった田沼意次であったが、近年研究が進みそのダークなメージが覆りつつある。
途中で挫折したものの農業中心の世の中からから、貨幣経済への改革や印旛沼を代表とした干拓事業を推し進めたことが評価されている。
また、エレキテルで有名な日本のレオナルドダヴィンチ・平賀源内などとも親交があり、当時としては珍しい先見性のある政治家だったらしい。
しかしその当時、明和の大火・浅間山の大噴火・天明の大飢饉といった自然災害や事故が相次ぎ、嫡男田沼意知が江戸城内で暗殺されてからは、家柄重視の松平定信ら保守派に追い落とされて行く事となる。
第十代将軍徳川家治の死で、意次は完全に政治の表舞台から姿を消した。
彼の失脚に伴い城は取り壊され、いまは跡形もない。
相良町は榛原町と合併し牧之原市となったが、川浦町は小さいながらも昔のままの地名で残った。
東名自動車道の焼津ICを過ぎ、大井川を渡るとすぐに吉田ICがある。
間を置かずに〝川浦IC〟が続く。
ほとんど車の乗り降りのない、寂しい印象のインターだ。
高速を降り左折し南下、海岸沿いを御前崎方面へ進むと本丁筋と呼ばれる川浦町の中心地へと出る。
そこから海沿いの道を十五分ほど走ると、のんびりとした風景の海からすぐに山が臨める〝寺筋〟と言われている田舎集落が出現する。
山へ入る間道を数分進むと〝薬王院〟という名の寺が現れた。
道はそこで行き止まっている。
この薬王院というのが美術部とテニス同好会が、これから一週間合宿のため寝泊まりさせてもらう場所だ。
『慈月山』『薬王院』
山門には立派な山号額と、院号額が掲げられている。
平安時代初期から続く弘法大師空海が開いたという伝承が残る真言宗大谷派の古刹と言うことで、なかなかに立派な門構えをしている。
正式名称は『慈月山 薬王院 明王寺』と言う。
一般的には〝薬王院〟又は〝お薬さま〟で通っている。
「うわっ、すごい田舎。うちらの町より凄いんじゃね、たしか鈴の親戚のお寺だよね」
夕香が顔をしかめながら、窓から辺りを眺め回している。
目に見えるのは、緑を緑で取り囲まれた山ばかりだ。
「うん、母親方の親戚なんだ。でも小さい頃に一回逢っただけで、伯父さん伯母さんがどんな人だったか覚えてもないの。たしか幼稚園の頃だもん」
鈴が応える。
「これじゃ海まで出るのにも相当時間がかかるね、バスだからあっという間に来ちゃったけど歩くと相当あるよ」
うんざりしたような顔で、夕香が溜息を吐く。
「それがね、寺の脇から山を降りる道と石段があるの、お寺への参道みたいなものね。それを下ればすぐに海岸のはずよ、両親に手を引かれて行った記憶がある。昔だけどなんとなく覚えてるわ、でもかなりの石段よ」
「いま来た道を歩くと考えたら、ちょっとくらいの階段なんてどって事ないよ。後でみんなにも教えようね」
バスから降りみなそれぞれの荷物を受け取ると、バスは来た道を去って行った。
今日が八月一日だから、再びバスがやって来るのは八月十一日の午前十時だ。
これから丸々十日間ここにいる美術部員十八名、テニス同行会員十六名と教師二名の合計三十六名は、共同生活をする事になる。
時刻は三時を少し回っているが、真夏と言うことで陽射しはまだまだ厳しい。
山門の前でそうこうしていると、寺社内から初老の夫婦らしき人影が出て来た。
「おお晃彦、待ってたぞ」
僧形の親父が、にこやかに声を掛けて来る。
「やあ伯父さん、ご厄介になります」
晃彦が丁寧に頭を下げる。
「まあまあ、お若い方が一杯でこれから一週間愉しくなりそうね」
傍らに立っている夫人が、生徒たちを見回しながら目を細めている。
「内海麗子と申します、柴神先生のお供でお伺い致しました。色々とご迷惑をおかけすると思いますが、なにとぞよろしくお願い致します」
麗子が爽やかな笑顔で、老婦人に挨拶をする。
「あら、お綺麗な方ね。晃彦くんの恋人?」
「えっ、ち、違います──」
真っ赤になって、麗子が俯いてしまう。
「なに言ってるの伯母さん、同僚の先生だよ。女子もいるから補助をお願いして来てもらってるんだ、変なこと言わないでよ」
慌てて晃彦が否定する。
「そうでしたの、ご免なさいね。でも晃彦くんはいい子だから、もし良かったらお付き合いしてみたらどう」
田舎のおばさん特有の、初対面なのに遠慮のない会話が続く。
麗子は相変わらず俯いたまま、なにも言えずにいる。
「だから、そんなことは言わないでよ。本当に同僚の先生ってだけで、そんな関係じゃないんだから。内海先生が困ってるでしょ、いい加減にして下さいよ」
そんな会話を聞いた夕香が、鈴の横腹を肘でつつく。
「あんたの伯母さん、なかなかやるね。なんだか面白そ」
ほかの生徒たちも、無言でニヤニヤと教師二人を眺めている。
「でもあの二人似合ってるよね、いっそこれを機会に付き合っちゃえばいいんだよ」
愉しそうに夕香が笑っている。
「そんな無責任なこと言わないでよ、あたしの伯父さんなんだよ晃ちゃんは」
鈴が溜息を吐く。
「さあみんな整列しろ。ご住職の大和田了海さんと、奥さんの君江さんだ。ご挨拶するんだ」
晃彦の号令の下、三十六人が一斉に頭を下げる。
「よろしくお願いしまーす」
「うん、元気があって結構。こちらこそ一週間よろしくお願いします、田舎でなにもないが、君たちの町にはない海がある存分に楽しみなさい。ひと息ついたら海岸まで案内しよう」
「やったー、海だ。夜は花火だな」
口々に生徒たちがはしゃぐ。
「さあ、境内を案内するからついて来なさい」
和尚の了海が、大股に山門の中へ入って行く。
最初のコメントを投稿しよう!