第一章 発端 6

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第一章 発端 6

 了海からひと通り案内を受けた生徒たちは、それぞれの宿泊場所に荷物を置きのんびりと休憩を取っていた。  かなり大きな敷地を持つお寺で、本堂のほか金堂や講堂が付随している。  住職たちの母屋と、僧侶のための離れはそれとは別に建てられている。  この辺りは〝寺筋〟と言われるだけあって、五つもの寺社が集まっている。  その中でも最も規模が大きいのが、この薬王院であった。  それに比例して、檀家の人数も最多である。  女子十五人は本堂の大広間、男子二十一人は講堂に寝泊まりすることになった。  風呂は海岸沿いに町の公共温泉施設があるので、そこを利用させてもらえる事になっていた。  バスの狭い座席から解放された若者たちは、宏大な座敷に寝てゴロゴロと転がってふざけ合っている。  別々の建物にいるはずなのに、男子も女子も同じような行動を取っているのが不思議だ。  自宅ではとても味わえない解放感に、みんな存分に浸っている。  四時頃に了海が、海岸を案内してくれることになっていた。  毎日の食事は、寺の檀家のおばさんたちの有志が、ボランティアで作ってくれることになっている。  それはお寺と地域住民との関係が、うまく行っている証だ。  食事の時間は朝が八時、昼が十二時、夜は六時と発表された。  食べ盛りの高校生ということもあり、毎回三十六人プラス教師二人分の料理を作るのは大変な手間であろう。  引率の晃彦は、檀家の婦人たちに感謝し切れないほどの思いを感じていた。 「伯父さん、くれぐれも檀家の方たちにはお礼を言っておいて下さい。なにせ部の予算が少なくって、とてもじゃないが外注など出来ないもんで。食材の分を賄うだけで手一杯なんです、最後の日には生徒たちに感謝の手紙を書かせます。そんな事くらいしか出来ませんが、よろしいでしょうか」 「ははは、なにも気にしなくてもいいのよ。みんな気のいいおばさん方なの、若い子に食べてもらおうと逆に張り切ってるんだから」  伯母の君江が、笑いながら応える。 「そう言って頂くと助かります。贅沢は言いませんが、量だけは大目にお願いします。みな食べ盛りなもので。それに材料費が足りなくなったら遠慮なく仰ってください、予備費は持って来てますから」 「そんな心配はしなくていいのよ。この辺は野菜は農家から、魚は漁師さんから余った物をもらえるんだから、それにお米も安く分けてもらえるし任せておいてちょうだい。今日は初日だから特別にお寺のおごりで〝とんかつとカレーライス〟を準備してるの。おばさんたち張り切ってもう下ごしらえしてる頃よ、お腹いっぱいに食べてね」 「そりゃあみんな喜ぶな、感謝します」  自分も好きなメニューなのだろう、晃彦が笑顔になる。  そこへ鈴が姿を見せた。 「こんにちは、鈴です──」  おずおずとした仕草で、鈴がぴょこんと頭を下げる。 「まあまあ鈴ちゃん! 大きくなったわね見違えたわ。前に逢った頃はこんな小さかったのに」  君江が満面の笑みを湛え、右手を高さ一メートル辺りにかざす。 「たぶん幼稚園の頃だったと思います、だからあまりよく覚えてなくって」  気恥ずかし気に鈴が応える。 「お父さん、お母さんは元気かい。随分逢ってないが」  了海が尋ねる。 「はい、元気にしてます。伯父さん伯母さんに、くれぐれもよろしく言ってくれって頼まれました」 「そうか、そうか。距離が離れてるから来るのも大変だが、たまには顔を見せてくれるように伝えてくれないかい」 「はい、必ず伝えます」  気さくで優しげな叔父夫婦に、鈴はすっかり気を許している。 「それにしても可愛らしい娘さんになったこと、高校二年生だったわね。じゃあ来年は受験ね」 「そうなんです、でもまだ進路を決めてなくって」  君江の問いに、鈴が口ごもる。 「伯母さん、少し説教して下さいよ。こいつまったく勉強に身が入ってないんです、進学するんなら大学も具体的に決めなきゃならないんだけど、未だにのんびりしてて。担任の先生から俺が苦情を言われるんですよ」 「なにもここで言い付けることないでしょ、晃ちゃんの馬鹿」 「教師に向かって馬鹿はないだろ、言い付けられたくなきゃ少しはしっかりしろ」 「しょうがないでしょ、まだ自分の将来の目標が見つけられないんだから」  そんな二人の遣り取りを、伯父と伯母は優しい目で眺めている。 「それにしても晃彦くん、君が美術教師になるなんて思っても見なかったよ。わたしはてっきりプロになるんじゃないかと思い込んでた。あの頃マスコミも大騒ぎだったしね、一体アメリカでなにがあったんだね」 「あなた、そのことは──」  言い辛そうに、君江が夫の言葉を遮る。 「いいんです伯母さん。みんな気を遣って腫れ物にでも触るように俺に接する、いい加減そんな態度は止めてもらいたかったんですから。もう十五年も前のことだ、いい加減忘れちまいたいんですよ、テニスのことは」  晃彦が明るい顔で了海を見る。 「俺もあの頃はプロになることを疑っていなかった、なにせ高校一年の十六歳で日本のトッププロに勝ったんです。自分でも天狗になってました、まだ子どもだったもんで。そして十七歳になる直前にアメリカに行った、そこでも俺の才能は群を抜いていました。渡米三日後に強制出場させられた全米ジュニアで、あっさりと優勝。順風満帆とはまさにあの頃の俺のことじゃないかな」  薄々とは知っていたが、やはり晃彦は若い頃にテニスの選手だったのだ。  鈴は叔父の口から語られる、若い頃の話しに魅入られていた。 「所属したテニスアカデミーでは、すぐにでもプロに転向することを勧められた。そこで実際の能力を試すために、極秘にある試合が組まれたんです。グランドスラムで上位に進出するクラスの選手との練習試合です。誰もが俺が勝つ事など予想だにしてなかった、ただどこまで食い下がれるかを見極めるためのものだったんです」  誰も話しに口を挟まない。 「俺自身も勝てるなんて思ってもいませんでした。自分の力を試したい、ただそれだけです。しかしふたを開けてみれば、圧勝だったんです。──俺の」  鈴は息を呑んだ。  平凡な田舎の高校教師だと思っていた叔父晃彦が、そんな天才テニスプレーヤーだったとは今のいままで知らなかったのだ。 「秘密の試合だったために公にはされませんでしたが、業界内には衝撃のニュースとして瞬く間に広がったようです。誰よりも一番驚いたのは俺自身でした、まさか自分の力がそこまでとは思ってなかったんです」  特になんの感情も見せずに、晃彦は淡々と話しを続ける。 「周りは色めき立ちました、すぐさまプロ転向への準備が進められ、同時にスポンサーへの売り込みが始められた。そうして一月後にはデヴューは世界四大大会の一つ〝全豪オープン〟と決まった。スポンサーも世界的な有名企業が数社つき、契約金は合計一億ドル以上だといっていた。なんの実績もない選手を、どんな伝手を行使したのか知らないけど〝主催者推薦枠〟の八人の中にねじ込んだんです。故意的にスーパースターを誕生させる計画だったらしい」 「────」  衝撃的な展開に、鈴は言葉もなかった。  ほかの二人も、固唾を飲んで聞き入っている。 「それからの俺は、テニス漬けの毎日でした。二十人近くの専属スタッフが組まれ、狙うのはプロ緒戦にしてグランドスラムでの優勝、壮大なプロジェクトです。優秀なコーチが招聘され、徹底的に最先端の練習が繰り返されました。そんな時、思ってもいなかったことが起こってしまったんです」  晃彦はそこで話しにひと区切りつけた。  それから先に語られるであろう話しは、あまり耳障りのいい事ではないことが察せられた。 「話したくないのなら無理をすることはない、誰にでもそんな事の一つや二つあるものだ」  了海が柔らかい眼差しで、晃彦を見ている。 「いいえ伯父さん、話させてください。いつまでも過去に捕らわれてても仕方がない」  引き結んでいた口元を緩ませ、晃彦が自嘲のような笑みを浮かべる。 「いつものメニューをこなしていた時、突然胸が苦しくなり目の前が真っ暗になって気を失ってしまった。病院のベッドで目を覚ました俺に、信じられないような言葉が待っていました。〝ガミー、君はもうテニスは続けられない、プロにはなれないんだ。アカデミーとの契約も切られた、二週間以内に日本へ帰国してくれ。一週間というのを二週間に伸ばしてもらうのが精一杯だった。すまないが、わたしにはこれ以上どうしてやることも出来ない〟渡米してからずっと通訳をしてくれてたリトル・ジミーからそう告げられました」 「リトル・ジミー?」  不思議そうに、鈴が小首を傾げる。 「あはは、あだ名だよ。百九十センチ以上もある大男のくせに、子どもの頃ひと一倍背が低かったらしくそう呼ばれてたらしい。人の良い優しい男でね、専用通訳として東洋人の俺を弟のように可愛がってくれた。あんな宣告を告げる役を押し付けられ、本当に気の毒だったよ」 「なにかの病気?」  君江が尋ねる。 「ええ、心臓の疾患です。普段の生活には支障がないレベルなんですけど、激しい運動には耐えられないと言うことでした。ましてやプロテニスプレーヤーになどとても成れない位のね。まさに天国から地獄へと堕ちてしまったような気持ちでした。頼るべき家族も友人もいない外国で、たった十七歳の子どもが背負うには、あまりに重すぎる現実だった」 「可哀そう・・・、晃ちゃんが可哀そう過ぎる」  その時の晃彦の年齢といまの自分を重ね合わせ、鈴は居たたまれない気持ちになった。 〝あたしがもし同じ事になったら、いったいどうなっちゃうんだろ〟  そう思うと、胸が張り裂けそうだった。 「アカデミーのアパートメントから出た俺は、それから帰国までの日々をリトル・ジミーの家で過ごした。新婚だった彼の部屋にはクロエという綺麗な嫁さんがいて、嫌な顔ひとつせずにすごく親切にしてくれた。明日が帰国という夜に、俺はしてはいけない選択をしてしまった。大量の睡眠薬を飲み手首を切ったんだ」
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