第一章 発端 7

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第一章 発端 7

「それからの俺は散々だった。慌ててアメリカにまで駈けつけて来た両親を見て〝ごめん〟それだけを言うのがやっとだった。病院のベッドに寝ている俺の顔を見たお袋は、気も狂わんばかりに泣いた。親父からはこれでもかと言わんばかりに怒鳴られた。もし普通の身体だったら、嫌というほどぶん殴られただろうな。俺はその時、一生分の親不孝をした」 「まさかそんな事があったとは──」  了海の重々しい声が、静かな室内に響いた。  君江は涙ぐんでいる。 「十日後俺は日本に戻った。しかし故郷へは帰らず、東京の親父の知り合いの所に厄介になったんです。どうしても生まれ育った町に戻る気にはなれなかった、俺のことを知らない人間の中で暮らしたかった。要は現実から逃げたんです、しょうがないじゃないですか、まだ十七歳だったんだから」  言い訳されなくっても、鈴には晃彦の気持ちが嫌というほど理解できた。 「それからは、まるで抜け殻のような生活だった。親父の知り合いの所からもすぐに逃げ出し、一人暮らしを始めた。部屋に閉じこもり、誰とも顔を合わせないような日々を三年近く過ごしたんです」  思春期の青年にとっては、あまりに勿体ない三年であった。 「やっとどうにか人と接することが出来るようになった頃、俺は二十歳になっていました。どう言うわけか、たまたまその日美術館にふらふらと入っていた。そこで俺は、子どもの頃絵を描くのが好きだったことを思い出した」  晃彦は、遠くを見るように目を宙に向けている。 「その日、小学生の集団が見学に来ていた。ほとんどの子が絵になど興味を示さず、館内を走り回ったりして教師に注意を受けていた。そんな中、一枚の絵の前で立ち止まり、一心不乱にその絵を見詰めている少年がいた」 「変わった子ね、絵が好きだったのかしら」  鈴が言う。 「なんとはなしに俺は、その少年に声を掛けた」 〝きみ、絵が好きなの〟 「声を掛けられても、その少年は絵から目を逸らさなかった」 〝別に絵なんか好きじゃないよ、ぼくはこれが好きなだけ〟 「そう言った少年の瞳から、ひと雫の涙がこぼれた」 〝ぼくもこんな絵が描きたいな〟 「少年の口から、そんな言葉がぽつりと出た」 〝お兄さんもこの絵が好き?〟 「ひと筋の涙の痕を拭きもせずに、少年が俺に訊いて来た。その時、少年の顔が凄く厳かに見えた」 〝────〟 「俺はなにも応えられないでいた」 〝さあみんな、これで見学はおしまい。バスに戻って〟 「遠くから教師の声が聞こえた」 〝バイバイ〟 「屈託のない笑顔を見せて、何ごともなかったかのように少年は仲間の所へ走って行った。あの厳かな表情は消え去り、それはただの小学生の顔だった」 〝絵か・・・〟 「俺の心の中で、なにかが変わった。いまとなってはその絵が、誰のなんという作品だったのかさえ思い出せない。ただ覚えているのは、その少年の純粋な涙だけだ。俺はその瞬間美大へ行くことを決心していた」  そこまで話して、晃彦の顔がやっと明るくなった。 「高校を卒業していなかった俺は、大検の資格を取り美大に合格するのに三年かかった。卒業するまでにさらに五年、まあ優等生とは言えない成績でどうにか教師の資格を取得し、卒業していまの学校に赴任してきたわけさ」 「晃ちゃん、苦労したんだね」 「鈴、お前が泣くことないだろ」  涙を流す鈴を見て、晃彦が笑う。 「そんな言い方ないでしょ、可哀そうで同情してやってるのに。晃ちゃんの馬鹿」  泣き笑いしながら、鈴が晃彦の胸を小さな拳で叩く。  伯父夫婦も同じく涙を指で掬いながら、その遣り取りを見て笑っている。  鈴にとって、この晃彦から聞いた話しは生涯忘れることの出来ないものとなった。  それでも鈴は、いまのどこか頼りなげな平凡な美術教師の叔父が大好きだった。 〝ずっとこのままの晃ちゃんでいてね〟  なんども晃彦の胸を叩きながら、鈴はそう願っていた。 「さあ、ここから下って行けばその先は海岸だ。かなり長いからそのつもりでな」  住職である了海が、境内の裏手にある小さな道を生徒たちに指差した。  降り口には小さな山門がある。 「開闢当時は、ここが正式な参道だったらしい。途中から山道が切り拓かれ、君たちがバスでやって来た方が正門となったんだ。文政年間というから、江戸時代の頃だな。こんな急坂じゃ物を運ぶにも大変だからね、それにいまでは車でやってくる人間が多いから、ここは地域の人だけが使用する裏参道となってしまった。しかし海に出るには都合がいい。年寄りの身には堪えるが、若者であればこの位の坂はどうという事はあるまい。連いて来なさい」  言いながら、了海が坂を降りはじめる。  二十メートルほど降りると、そこそこの広さの平地があり、小さな社のようなものと寂れて枯れた手水舎があった。  そこに設けられている山門は、古いがかなり立派なものだ。  ここから先は石段が続いている。  かなりいびつで急な、古い階段である  正式な参道だった頃の名残りだろう。  そこに立つと、石段は真っ直ぐに海岸にまで伸びている。  三百メートルほどありそうだ。  それ以上にここから正面を見降ろすと、眼下には真っ青な太平洋が広がっていた。 「凄え眺めだな、見渡す限り海じゃねえか。ねえケンちゃん」  剛志が真っ先に声を上げた。 「ガキみてえに騒ぐんじゃねえよ、みっともねえ」  斜に構えているが、健一も興奮しているのがその表情で分かる。 「あにき、やっぱ健一さんはかっこいいっすね。こんな景色見ても騒いだりしねっすもん」  一年の大夢が、兄貴分の剛志に言う。 「あたりめえだろ、ケンちゃんは実質的には地区の大将なんだぞ。形式的には三年の寅さんにその座を譲ってるけど、喧嘩なら敗けはしねえんだ。なんせ中学二年で空手の黒帯を取ったんだからな、無敵だよ」  まるで自分のことのように、剛志が自慢する。  剛志の言う〝寅さん〟というのは、R工業高校の一条寅雄のことだ。  百九十センチ以上の身長を持つ大男で、真偽は定かじゃないが、本職のヤクザをぶっ飛ばしたという噂もある。 「凄え、凄え。健一さん最強。あの化け物みてえな歳上の一条さんを〝寅ちゃん〟呼ばわりだからな。うちの三年なんかびびって、健一さんの姿見ただけで逃げちまうもん」  同じく一年の雄作が、憧れの眼差しを健一に送っている。 「ねえ鈴、さっき言ってた階段ってここの事でしょ。見るからに大変そうね」  降りる前から夕香が、げんなりした顔になっている。 「なによその顔、若いんだから元気出しなさい」  鈴が夕香の背中をなでる。 「若くったって疲れるものは疲れるっしょ、これはきつそうよ」 「確かにね。でもここからの夕陽はとても綺麗よ、幼心にも印象に残ってるもの。沈む夕日を受けて海が黄金色に輝くの。茜色の空に凪いだ金色の海、滅多に見られる景色じゃない。きっと夕香も感動するはず」  鈴が小さかった頃を思い出し、うっとりとした顔で目の前のパノラマを眺めている。
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