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邇邇芸命は、執務室を後にしたその足で、木花之佐久夜毘売の居室を訪れた。
佐久夜は居室に設えた濡れ縁に立ち、沈みゆく夕陽を眺めていた。
邇邇芸命は、足音を立てずに背後から佐久夜に近づき、同じ景色に目を向けた。
その幻想的な美しさに息を飲んだ。
夕陽を受けた木々が、きらきらと白銀に光り輝いていた。
「これは・・・・・・」思わず唸った感嘆の声に、佐久夜が振り返った。
ふっくらとした頬をほんのり上気させ、邇邇芸命にそっと体を寄せた。
眼下に広がる風景に視線を戻し、静かな声で言った。
「お心を癒して差し上げたいと、山の桜に息吹をかけました」
木々が白銀に染まっていると見えたは、桜花だった。
佐久夜毘売が、邇邇芸命を慰めようと、一斉に山桜を開花させていた。
邇邇芸命は美を愛する。
佐久夜が演出した風景は、邇邇芸命の心が震えるほど美しかった。
邇邇芸命は佐久夜の肩を抱いたまま、刻一刻と変化する静寂な景色を心に刻んだ。
やがて、月明かりを受けてぼんやり桜の白さがと浮かび上がった。
それもまた趣があった。
「とても心が洗われた。さぞ神力を使ったことであろう」と、邇邇芸命は感謝と労いの言葉をかけた。
「ご満足頂けて、良かった」
安堵したように微笑む佐久夜があまりに可憐で、邇邇芸命は妻を胸に抱きしめた。
「ソナタはあの風景に勝るとも、劣らぬ」
「まぁ、嬉しゅうございます・・・・・・」
傍で聞けば、苦笑せずにはいられぬ甘い言葉を交わしながら、若い二人の男女神は、あれよあれよと云う間に寝台へともつれ込んだ。
佐久夜は、石長比売に関して、邇邇芸命に何も問わなかった。
姉妹は仲が良かったと聞き及ぶが、邇邇芸命を追い詰めないよう、差し控えているのだろう。
思い遣り深き佐久夜を、ますます愛おしく感じた。
佐久夜の顔にかかる乱れ髪を、そっと寄せながら邇邇芸命は囁いた。
「早よう、ワレの御子が授かっておくれ」
膨大な桜花の開花に疲れたのであろう。まさに眠りに落ちようとしていた佐久夜は、薄っすらと目を開けて夫を見た。
ぼんやりと微笑んで言った。
「すでに身籠っておりますのよ」
佐久夜は再び目を閉じて、眠りについた。
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