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塩椎神は世に人が現れ始めてから、製塩技法を広めた。
神力を失った神々、つまり人々は、生命維持に塩を必要とする。
海水から食塩を作り出す製塩は、神力なしに生きる彼らにとって、必要不可欠な技術であった。
海と陸の境が活動拠点となった塩椎神は、海神・綿津見神から密命を受けた。
「邇邇芸命の御子であれば、どの御子でも構わぬ」
造作なき事と前置きした後、「仕組まれたと悟られてはならぬ」や「無理強いはならぬ」など、次々と条件は加えられた。
要は、「海中の綿津見宮まで、御子に足を運ばせよ」とのことだった。
塩椎は浜辺を散策していた。もとい、散策に見せかけた探索をしていた。
杖をつくは、老人神を装いて、若い天つ神に警戒心を持たせぬためだ。
御子の一人が釣り好きだと、聞き及ぶ。
前方から歩み来るは、件の御子であろう。
国つ神とは明らかに異なる雰囲気を、醸し出していた。
御子の胸を飾る勾玉の首飾りは、明るい緑色だった。高志国産と推測できる上質な翡翠だ。
三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉を作成した玉祖命の手により、加工されたと見受けられる。一つ一つの翡翠は、曇りなく磨き込まれていた。
長い釣り竿を肩に担ぎ、一方の手には竹籠をぶら下げていた。
「釣れましたかの」
親しげに声を掛けた塩椎を、若い天つ神は胡散臭げに見返した。
(おぉ。目つきが山神・大山津見神によう似ておる)
無言の御子に、塩椎は根気よく話しかけた。
「天つ神の御子でおられますな。ご挨拶させて頂きますぞ。某は塩椎神。お見知りおきを」
若い神は不機嫌そうな面持ちのまま、煩わしいと言わんばかりに名乗った。
「邇邇芸命の御子、火照命である」
塩椎は、微笑んで頷きながら、火照が手に持つ竹籠を覗いた。
中は空だった。魚は一匹も釣れなかったようだ。
「御近付きのしるしに、良き物を差し上げましょう」
塩椎は火照の釣り竿を断りもなく掴み寄せ、懐から取り出した赤珊瑚細工の釣り針を、装着した。
「海神・綿津見神愛用の釣り針と同じでござれば、よう釣れますぞ」
呆気に取られる火照を残し、一礼した塩椎はその場を去った。
数週間後、同じ浜で火照命に出くわした際は、御子から声をかけてきた。
「ソナタの釣り針は、面白きほど釣れる。良き品を得た」
どうやら、礼を言っているようだ。
塩椎は大仰に喜んでみせ、「火照命のお役に立ち、恐悦至極でございます」と、腰を屈めた。
火照命は何かを考える風に、塩椎を見つめた。
やがて、思いついたようだ。
「ワレを海幸彦の名で呼んでも構わぬぞ」
天つ神らからは、海幸彦と呼ばれているとのことだ。
釣り針に対する褒美だと言っているように、塩椎神には聞こえた。
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