綿津見の宮

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綿津見の宮

 山幸彦(ヤマサチヒコ)を乗せた竹の小舟は、すでに浜が見えぬほど、沖へ進んでいた。  舟底に軽い衝撃を感じ、慌てて山幸彦は舟の端を掴んだ。  舟先が沈み、海中へと潜り始めた。  山幸彦は胸に揺れる翡翠(ひすい)勾玉(まがたま)飾りの一つを、強く握った。  この勾玉(まがたま)は、三種の神器・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の作成者、玉祖命(タマノオヤノミコト)によって加工された。  曇りなく磨かれた勾玉の一つ一つに、天つ神・玉祖命(タマノオヤノミコト)の神力が込められている。  邇邇芸命(ニニギノミコト)の三御子に、玉祖(タマノオヤ)自らが丁寧に磨き上げた勾玉を、首飾りにして贈った。 「この勾玉を握りなされ。厄を払い、運を引き寄せまする」と耳元で(ささや)きながら、三御子それぞれの首に掛けた。  塩椎神(シオツチノカミ)の術により、小舟はすっぽりと大きな泡に包まれ、山幸彦を水で濡らすことなく、海中を進んだ。    山幸彦は安堵のため息をつけど、胸元の勾玉(まがたま)は握りしめていた。  先ほどの衝撃は、大亀だったようだ。  いつの間にやら、小舟は大亀の背に固定されていた。  大亀は全てを承知するように、両手足を大きく動かし、山幸彦を海の底へと導いた。  大小様々で色とりどりの魚が、大亀の周りに集まり始めた。  背に乗る小舟を護衛するように、前後左右を固めて泳ぐ光景を、山幸彦は呆然(ぼうぜん)と見つめた。  上を見上げれば、青色がかった海水を通して、天照大御神(アマテラスオオミカミ)のお姿である太陽が、揺ら揺らと形を変えて映っている。  海底へと目を向ければ、珊瑚の林には不思議な生き物が見え隠れしていた。  山幸彦は狭い舟の中で体をよじりながら、あちらこちらの方角に顔を向けては、感嘆の声を上げた。 (海原の下に、かくも美しい世が・・・・・・)  前方に、重厚な門が見えてきた。  近づくにつれ、門一面に張り付く、貝やヒトデが見て取れた。  小舟を乗せた大亀は門内に泳ぎ入り、他の魚は門外で解散した。  後方の外門が閉まると、徐々に水位が下がった。  すっかり水が無くなると、閉じていた前方の内門が開いた。  そこから見える風景は、地上の宮と変わらなかった。  玉砂利の小道が伸び、小道に沿って木々が植えられていた。  山幸彦は小舟から降りて、門内に足を踏みいれた。  背後では内門がゆっくりと閉まり、小舟には戻れなくなった。   (ここが綿津見宮(わたつみのみや)であろうか)  玉砂利を踏みしめながら進むと、小道脇の林に井戸があった。  井戸の横には大きな(かつら)の木があり、太い枝が高見から井戸を見下ろすように伸びていた。 (緊張し通しだったゆえ、喉が渇いた)  山幸彦が水を飲もうと近づいたところ、林の中から話し声が聞こえた。  とっさに桂の木によじ登り、生い茂る葉に身を隠した。 「正門の井戸水をご所望とは、おめずらしいですわね」 「・・・・・・そうね」 「せっかくですもの、豊玉毘売(トヨタマビメ)も、お召し上がりなればよろしいですわ」 「・・・・・・そうね」  豊玉毘売(トヨタマビメ)と呼びかけられた女神は、口数が少なかった。赤い衣を(まと)い白珊瑚の首飾りを下げていた。  もう一方の声の主は、白い衣を(まと)い赤珊瑚の首飾りを下げていた。  木の上からは、顔まではよく見えなかった。  山幸彦は胸の勾玉(まがたま)を握りしめたまま、そっと体を乗り出した。
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