綿津見の宮

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 豊玉毘売(トヨタマビメ)に付き従っていたのは、専属の侍女のカツ江であった。  豊玉毘売(トヨタマビメ)は海神・綿津見神(ワタツミノカミ)の娘であり、たいそう美しい。 「豊玉(とよたま)が地上におれば、大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘・木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)の美しさも(かす)むであろう」は、綿津見神(ワタツミノカミ)の言である。  容姿の美しさに加え、(りん)とした(たたず)まいに、品のある振る舞い。  豊玉毘売(トヨタマビメ)は、カツ江の憧れであった。  この日、豊玉毘売は綿津見神(ワタツミノカミ)から「正門の井戸から水を汲んでくるように」と言い付かったので、カツ江も付き従っていた。  水汲みは本来使用人の仕事であり、神殿中庭の井戸から汲み置く。  神殿から離れた正門近くの井戸は、少々離れているため、あまり使われない。  とは言え、正門の井戸水は海藻養分を含み、美容に良いと、わざわざ汲み置く侍女仲間もいた。  豊玉毘売(トヨタマビメ)が「カツ江、水瓶(みずがめ)をこちらに」と手を伸ばした。  カツ江は首を横に振って、「ワタクシが致します」と(かめ)を沈めて、水を満たした。  その(かめ)の中に、ポチャリと音を立てて何かが入った。  カツ江が(のぞ)くと、底には明るい緑色の勾玉(まがたま)が一つ沈んでいた。  カツ江は同じように覗いていた豊玉毘売に、目で合図を送った。  同時に桂の木を見上げた。    見覚えない若い男神が、両手で枝につかまり座っていた。  バツの悪そうな顔で、こちらを見ている。  「これは失礼致した。首飾りの勾玉が外れてしまった」  若い男神は、端正な顔立ちをしていた。  恥ずかしそうに、ほんのりと赤らめた顔には、男の色気があった。  カツ江は、しばし見とれた後で「どなたです」と問うた。  少しだけ声が震えた。  若い神は木から飛び降りて、豊玉毘売(トヨタマビメ)とカツ江の前に立った。  カツ江の知るとは、明らかに異なる雰囲気を、(かも)し出している。  一体、どなたであろうか。   「天つ神・邇邇芸命(ニニギノミコト)の御子、火遠理命(ホオリノミコト)でござる。山幸彦(ヤマサチヒコ)とお呼び頂いて構いませぬ」  カツ江は目の前の若い神が、天つ神と名乗るのを聞いて驚いた。  隣に立つ豊玉毘売も驚いているのがわかった。続けて(まばた)きをパチパチと二度繰り返すは、ヒメが驚いた時の(くせ)なのだ。  天つ神には、かつて一度も会ったことがなかったし、ましてや、ここは海底の宮である。  井戸を(おお)う木の枝に、座っていようはずもない。 (考えられるのは一つ)と、カツ江は瞬時に見当(けんとう)を付けた。    綿津見神が言う通り、”木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)の美しさも(かす)む” 美貌の持ち主の()がヒメ、豊玉毘売(トヨタマビメ)が目当てで、訪れたか。  それが証拠に、翡翠の勾玉を投げ入れたではないか。 「綿津見神(ワタツミノカミ)の娘、豊玉毘売(トヨタマビメ)でございます。この者はワタクシの侍女でカツ江と申します」  豊玉はゆっくりと落ち着いた声で、名乗った。  (まばた)きは、していない。  カツ江は、推測の裏付けが欲しかった。ヒメのためにも、はっきりさせるべきだ。 「僭越(せんえつ)ながら」と、カツ江は山幸彦に問うた。 「この翡翠(ひすい)の勾玉は、お気持ちで間違いございませぬか」  山幸彦は「」と繰り返し、考えを巡らすかの(ごと)く見えた。  カツ江はであったかと焦った。 「海つ神は、首飾りを交換することで、思いを伝えます。この翡翠の勾玉は、豊玉毘売(トヨタマビメ)へのお気持ちでございましょうか」  口早(くちばや)に念を押した。  豊玉毘売(トヨタマビメ)は、声を(ひそ)めて「カツ江、お(ひか)えなさい」と叱った。  山幸彦は、「ほう」と頷くと、豊玉を見つめた。 「情緒ある男女の習わしが、おありになるようだ。受け取って頂ければ幸いです」  山幸彦の返答に、満面を笑みにしたカツ江はヒメの表情を探った。  豊玉は(りん)と背筋を伸ばしていた。他人事であるかのように、()まし顔のままであったが、二度の瞬きをカツ江は見逃さなかった。  我が意を得たりとばかりに、カツ江は「恐れながら・・・・・・」と、豊玉の胸に下がる首飾りに手を伸ばした。  首飾りの白珊瑚の勾玉を一つ外すと、山幸彦に差し出した。  またもや思案気に見つめる山幸彦に、カツ江は「失礼致しまする」と断って、山幸彦の首飾りに白珊瑚の勾玉を付けた。  明るい緑色の翡翠の勾玉飾りの中で、中央の一つが白珊瑚になった。  満足げに(うなず)いたカツ江は、水瓶から翡翠の勾玉を拾い上げると、豊玉の首飾りに付けた。  白い珊瑚の勾玉飾りの中で、中央の一つが緑翡翠の勾玉になった。 「カツ江」  ヒメから軽く(にら)まれたが、カツ江は自信があった。 (ヒメは山幸彦を憎からず思っている)  豊玉毘売(トヨタマビメ)の頬に、ほんのりと赤味が差していたからだ。  
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