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帰還
宴は、その後も頻繁に開かれた。
海底の宮を訪れた天つ神は、山幸彦が初である。
即ち、海つ神は天つ神に拝謁する機会がない。
ほとんどの海底の神は、天上の神に対して馴染みがなかった。
山幸彦の訪宮を知った彼らが、千載一遇の機会を逃すはずもない。高価な献上品を携え、続々とやって来た。
綿津見神は来る神を拒まず、何カ月にも渡って盛大な宴を催した。
山幸彦が海つ神から受ける最初の挨拶は、必ずと言って良いほど、天照大御神へのご機嫌伺いだった。
天照大御神は天上界のみならず、地上界を支配する太陽神であり、その威光は海原へも及ぶ。
山幸彦は地上で生まれ、地上で暮らす。
地上で生まれた神は、国つ神のみならず、天つ神でさえ、高天原へは昇れない。
だが、かつて一度だけ、曾祖母・天照大御神に拝謁したことがあった。
元服の折に、父・邇邇芸命が所有する三種の神器の一つ、八咫鏡を通して、高天原の天照大御神に御挨拶申し上げた。
何であれ、このような前置きは、必要なかろう。
山幸彦は返答を、一言で済ませた。
「天照大御神おかれては、ご健勝であらせられる」
海つ神らは大いに感服し、山幸彦を高貴な身分と実感した。
「山幸彦殿とお近づきのしるしに、まずは一献」
「某の盃も受けてくだされ」
「まてまて、某の酌が先でござる」
持参した自慢の酒を、競ってすすめる。
天つ神とはいえ、若き神がこれほど持て囃され、歓待されれば、嬉しくないはずがない。
海の底にいながらにして、天にも昇る心地とは、このことだ。
饒舌にもなった。
海つ神に請われ、地上で暮らす天つ神のこぼれ話も、披露した。
天宇受売と猿田彦の睨みの戦いについては、まるでその場に居たかのように語った。
海つ神は緊迫したシーンを思い浮かべて、互いに顔を見合わせ、息を吞んだ。
「睨み合いが見つめ合いに変り、夫婦になったと、天宇受売がのろけておりましたぞ」
やんやの喝采と笑いが起きる。
宴を重ねるごとに、山幸彦の傍らに座した豊玉毘売も、声を出して笑うほど打ち解けていった。
山幸彦の滞在が三年になろうという頃。
この日、侍女・カツ江は豊玉毘売の居室に控えていた。
久方ぶりにヒメが海中に泳ぎに出かけた。その帰りを豊玉専用の扉の前で待ち受けていた。
扉を覆う布は、カツ江によって吊るされた目隠し用だ。
「山幸彦殿に、ワタクシの泳ぐ姿は、まだ知られとうない」との、豊玉の要望を受けてのことだった。
その山幸彦は綿津見神の元にいるはずだ。
探し求めていた赤珊瑚の釣り針が、見つかったと云う。
鯛の口腔内にあったらしい。
しばらくは、こちらの居室には来ないだろうと、ヒメは泳ぎに出た。
外扉のくぐもるような開閉音に続き、水の抜ける音がした。
ほどなく、内扉が開いた。
カツ江は豊玉毘売の濡れた黒髪を、丁寧に布で拭った。
白い珊瑚の勾玉飾りの中で、中央の一つが緑の翡翠の勾玉首飾りが、胸元で揺れていた。
「気持ち良う御座いましたか」
「ええ、とても」
「ヒメの泳ぐ姿は、とても美しゅうございます」
「・・・・・・そうであろうか」
カツ江の目下の懸念は、豊玉毘売の体内に宿る赤子のことだ。むろん、山幸彦の御子である。
カツ江は此の先も豊玉に仕えながら、赤子の世話もしたかった。
ただ、地上でとなれば話は別だ。
海中で生まれ育ったカツ江も、海の水なくしては暮らせない。
綿津見宮に仕える侍従や侍女も同様であり、そのために、泳ぐ時間帯が確保されていた。
山幸彦と赤子が、このまま綿津見宮で暮らすことを、カツ江は期待した。
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