帰還

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 連絡を受けた山幸彦(ヤマサチヒコ)は、綿津見神(ワタツミノカミ)の居室を訪れた。  綿津見(ワタツミ)は山幸彦を室内に招き入れると、侍従に「外で待て」と命じ、居室から追い払った。  (たい)の口腔内から取り出した赤珊瑚の釣り針は、白い絹布に包まれ、卓上に置かれていた。 「お探しの釣り針が見つかりましたぞ」 「お手を(わずら)わせ、(かたじけ)ない」  山幸彦は釣り針を布ごと手に取った。  確かに、海幸彦(ウミサチヒコ)の釣り針だ。 「山幸彦殿におかれましては、大手を振って高千穂宮(たかちほのみや)にお帰りになれますな」 「・・・・・・」  山幸彦は綿津見を振り返り、言葉に込められた意味を見極めようと、その表情を探った。  綿津見が帰還を言及したのは、初めてだったからだ。  綿津見は身振りで椅子を勧めた。椅子も卓と揃いで、赤珊瑚の作りだった。   「いやはや・・・・・・。(それがし)がお帰しせぬとお思いであったか。豊玉(トヨタマ)が可愛いとは申せ、天つ神にそのような無理強いは出来ますまい。  娘が宿している赤子については、ご心配なされるな。地上にて産ませまする。ただ・・・・・・」  綿津見は、一旦言葉を切った。 「ただ・・・・・・、なんで御座ろうか?」と、山幸彦は先を(うなが)した。  それまでの穏やかだった表情を、綿津見(ワタツミ)が一変させた。  眼光鋭く、山幸彦を見据えた。  神力の高い自然神・綿津見神(ワタツミノカミ)は、激しい破壊力を伴う神として恐れられもする。  神歴においても、山幸彦では到底及ばぬ。  (にら)みつけられ、威圧感にたじろいだとて、仕方あるまい。  むしろ、目を逸らさなかっただけでも、立派である。 「伊邪那岐命(イザナギノミコト)伊邪那美命(イザナミノミコト)の神産みで産まれし以降、ワレは大海原を安定させ、繁栄させるべく尽力しておる。  その娘を(めと)ったこと、ご自覚召されよ」  腹に響く低い声だった。  山幸彦は(うなず)くでもなく、無言で次の言葉を待った。 「邇邇芸命(ニニギノミコト)の正式な後継者であればこそ、釣り合おう」  山幸彦は予期せぬ話の展開に、目を見開いた。  父の、邇邇芸命の後継者は決められておらず、しかるに、(おのれ)ではない。    綿津見は立ち上がり、山幸彦の背後に回った。  両肩に手を置き、ポンポンと軽く叩いた。 「そのように身構えずとも、ワシの言う通りになされば、事は簡単に運びまする。なに、ご兄弟を亡き者にするわけでは御座らん」 「・・・・・・」  赤珊瑚の釣り針を指し、「負の神術をかけたので、海幸彦に必ずや渡しなされ」と言った。 「負の神術とは・・・・・・?」  綿津見はニヤリと口元を歪め「全ての事が上手く運ばぬ」と、言った。  次に、潮満(しおみつ)(たま)潮乾(しおふる)(たま)だと言って、それぞれを手に乗せた。  自在に潮の満ち引きを操れる球だと言った。 「潮の満ち引きで、何をせよと・・・・・・」  山幸彦の問いに、綿津見は呆れたように頭を左右に軽く振った。 「溺れている者がいる。助けるにはどちらの珠を使えばよろしいか」  山幸彦は、「潮乾(しおふる)(たま)でござろう。水がなくなる」と即答した。 「ご明察(めいさつ)でござる。その逆を望むならば、溺れさせるなら・・・・・・、潮満(しおみつ)(たま)でござるな」  綿津見は交互に珠を乗せた手を、持ち上げてみせた。 「力を見せつけるだけで、ご兄弟は屈服するであろう」  山幸彦は珠を見つめたまま、眉根を寄せて顔をしかめた。  綿津見は自ら茶を入れ、山幸彦にすすめた。  ふっと笑うと、山幸彦の瞳を覗き込み、穏やかな口調で言った。 「のう、婿殿。ソナタの手で地上を繁栄させ、より安定した良き国へと導きたくはないか?」  山幸彦は、綿津見を見つめた。 「婿殿には、万事やり遂げる素質があると、(それがし)が思うからこその提案ぞ」 「・・・・・・そうであろうか」 「ソナタしか、おるまい。天照大御神(アマテラスオオミカミ)(こころざ)しを叶えて差し上げよ」  天照大御神の名を聞いて、山幸彦の心は動いた。 「婿殿、正式な後継者とならねば、何も始められぬのだぞ」 (国を繁栄させ、安定した良き国にするが、我がつとめ・・・・・・)  山幸彦は、じっと考えた。  山幸彦は(みずか)らを説得するように、一度大きく(うなず)いてから、(しゅうと)に返事をした。 「相分(あいわ)かった」
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