豊玉毘売の憂い

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 綿津見神の居室を後にした山幸彦は、その足で豊玉毘売(トヨタマビメ)の元を訪れ、急の帰還を告げた。 「ソナタに相応(ふさわ)しい夫になって迎えようぞ。それまで、息災(そくさい)にしていておくれ」  豊玉は強く抱きしめられたまま、頷いた。  山幸彦帰還の準備はすぐさま整えられた。  別れを惜しむ夫婦に、「ご出立の準備が整いました」と声が掛かり、豊玉と山幸彦は正門へ向かった。  山幸彦を地上へ送り届けるは、一尋(ひとひろ)のサメが請け負っていた。  乗り心地よりも、速さが重視されたようだ。 「綿津見神、並びに海つ神の皆さま、お世話になり申した」  見送りの者へ丁寧に礼を述べると、握っていた豊玉の手を放し、内門へ足を踏み入れた。  内門が静かに閉じた。  豊玉は閉じられた門を、いつまでも見つめていた。  内門の向こうでは、徐々に海水が満ちているのだろう。開いた外門から迎えに入った一尋のサメの背に、乗るのだろう。  綿津見神によって術を(ひどこ)された山幸彦は、溺れることも濡れることもなく、地上へ向かえるはずだった。  その日のうちに、一尋(ひとひろ)のサメは綿津見宮へ戻った。  海岸から飛び出たように位置する小さな島は、神代(かみよ)においては、これほど波状の奇岩には囲まれていなかった。7277fdc8-b2c2-45c1-923c-d127837e4b59  「青島」と呼ばれる小島へ、山幸彦を送り届けたと報告したサメは、背に結びつけられた小刀を豊玉に見せた。  無事に上陸し、道中の(ろう)をねぎらった山幸彦から褒美を(たまわ)った。と、恐縮しながらも喜色満面(きしょくまんめん)に報告した。 「大儀(たいぎ)であった」  豊玉もサメを(ねぎら)った。  以前、「無礼な」と夫はサメを嫌ったので案じていたのだ。  恐らく、夫は覚えてはいまい。  とは言え、豊玉は八尋(やひろ)大和鰐(おおわに)(サメ)の姿を見せることについては、躊躇(ためら)いがある。  最大の懸念は、地上での出産であった。  当然ながら、海つ神の出産は海中であり、水中出産だ。  海中の姿で出産する。  豊玉とて例外ではない。水中にて、サメの姿で出産する。  父・綿津見神は潮満(しおみつ)(たま)潮乾(しおふる)(たま)を豊玉に見せ、「案ずるな」と言った。 「海際(うみぎわ)に産屋を設けよ。産気づいたら産屋に潮を満たし、出産後は潮を引けばよい。さすれば、天つ神の赤子とて溺れはせぬ」    どうあっても、地上で天つ神の御子を産まねばならぬと言う。 「ご心配には及びませぬ。カツ江にお任せ下され」と、胸を叩いたカツ江は、産屋を建てるに適した場所を探り始めた。  豊玉の心の(うれ)いを、真に理解する者はいなかった。   「万事は整うた。豊玉毘売は急ぎ上陸されよ」と山幸彦から連絡を受けたのは、すでに臨月を迎えた頃だった。  豊玉は大亀の背に乗っての上陸を主張し、「泳ぐが早かろう」と()かす綿津見神を説き伏せた。    これだけは、譲れなかった。  夫の目には、サメの姿を一切触れさせぬと決めていた。  かくして、カツ江が泳いで先導し、その後を豊玉毘売を乗せた大亀が追う。という形で、急ぐことなく地上へ向かった。    
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