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岩窟にて
日向灘に面した切り立つ岩肌。その中腹は打ち寄せる波で、浸食されたのであろう。
岩窟になっていた。
カツ江に案内された岩窟内は、産屋を建てるに申し分のない広さだった。
「いかがです。条件にピッタリでございましょう」
得意満面にぐるっと見回すと、カツ江は豊玉毘売を振り返った。
潮を満たせば、良い具合に溜まるであろう。
満足した豊玉毘売は「よう探してくれました」と、カツ江を労った。
「ここに決めてよろしいですね」と弾むカツ江の声に重なり、新たな声が岩屋内に響いた。
「豊玉毘売!」
久方ぶりに耳にした夫の声だった。
豊玉毘売上陸の一報を受けた山幸彦が、住まいである高千穂宮から駆け付けた。
カツ江は山幸彦に一礼をすると、豊玉には目くばせをして場を外した。
夫婦の再会に、気を利かせたのだろう。
「ようやくソナタを迎えることができた。さりとて、ソナタを思わぬ日は一日とて、なかったのだよ」
「ワタクシもお会いしとうございました」
長い抱擁と口づけの後で、山幸彦は岩屋内を見回し、眉をひそめた。
「このような薄暗い場所にするのか? 相応しき場所を用意致すぞ」
「いえ、ここが良いのです」
豊玉毘売は、山幸彦の瞳をじっと見つめてから、話を切り出した。
「お願したきことが、一つ御座います」
山幸彦は嬉しそうに、「さてさて、如何なることであろうか。申してみよ。何でも叶えて差し上げよう」と優しく促した。
豊玉は「嬉しゅうございます」と微笑んでから、
「海つ神であるワタクシは、出産時に姿が変ります。その姿をアナタ様に見られとうございませぬ」
山幸彦は軽く頭を振ると、幼子を宥めるかのように言った。
「どのような姿であろうと、ソナタを愛するワレの心は何ら変わらぬ」
「お約束願います。ワタクシの姿をご覧にならぬと」
頑として約束せよと繰り返す豊玉に、山幸彦は少々たじろいだ。
降参したとばかりに両手を上げ、「相分かった」と笑った。
山幸彦が国つ神の名工を手配し、岩屋内に手際よく産屋が建てられ始めた。
折り悪く、まだ完全に屋根を葺き終わらぬうちに、豊玉は産気づいた。
産屋建築に携わる者を、急ぎ岩屋から出すよう、豊玉は侍女・カツ江に命じた。
これから招き寄せる海水に巻き込まれれば、国つ神などひとたまりもない。
「命が惜しくば、岩屋内に残ってはなりませぬ」
皆が岩屋から離れたことを確認したカツ江が、声を掛けた。
「ヒメ様、よろしゅうございます」
豊玉は潮満珠を手に取った。
岩屋内に急激に潮が満ち始めた。
産屋の床に横たわった豊玉毘売の体が海水に浸ると、その姿は八尋の大和鰐(サメ)に変わった。
天つ神の赤子であれば、水中にて姿は変えられぬやもしれぬ。と、念には念を入れた。
豊玉の体内から放たれた赤子を、水中から直ちに取り上げるべく、カツ江には姿を変えさせずに、半身を水に浸けたまま、立ち姿で身構えさせた。
サメ姿の豊玉毘売が鋼色の体を揺すり始めた時、あろうことか、山幸彦の声が岩屋内に響いた。
「大事ないかっ! 海水が押し寄せておるぞっ! 豊玉毘売、大事ないかっ!」
水を掻き分けながら、危険を顧みずに産屋に近づいて来た。
一瞬動きを止めた豊玉は、再び鋼色の体を揺すり、天つ神の御子を水中で産んだ。
カツ江はすぐさま赤子を掬い上げ、布にくるんだ。
同時に山幸彦の息を呑む声が聞こえた。
「なんということだ・・・・・・」
明かり取り用の脇窓から、山幸彦は中の様子を見てしまったのだ。
横たわったまま、しなやかな肢体へ姿を戻した豊玉は、両手で顔を覆っていた。
「ご覧にならぬとお約束して下さったでは、ありませぬか」
「・・・・・・」
山幸彦は、相当に混乱していたのだろう。
産屋から、豊玉毘売の元から、走り去ったのだ。
「御子をこちらへ」
カツ江は豊玉の腕に、生まれたばかりの赤子を抱かせた。
豊玉は赤子に頬ずりをし、小さな手を握った。
赤子の額に唇をそっと押し当てから、カツ江に赤子を差し出した。
「ワタクシは綿津見宮へ帰ります。ソナタは赤子を我が夫に託してから、お戻りなさい」
「ヒメ様、どうか、早まったりなさらないで」
驚いたカツ江は、なんとか引き留めようとした。
豊玉毘売は、すくっと立ち上がった。
顎を上げ背筋を伸ばし、海へ向かって歩き出した豊玉は、決して振り返らなかった。
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