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綿津見神の居室の扉は閉じられていた。
その扉の外で心配そうに聞き耳を立て、中の様子を伺っているのは、玉依毘売だ。
玉依毘売は綿津見神の娘であり、豊玉毘売の妹である。
室内には父・綿津見神と姉・豊玉毘売がいる。
時折、父の怒りを含んだ声が聞こえてくるが、姉の声は聞こえない。
玉依毘売は幼少の頃より、歳の離れた姉、豊玉毘売に憧れていた。
気高く、美しく、振る舞いは優雅であり、姉と言葉を交わす機会を得れば、日がな一日、心が弾んだものだ。
豊玉毘売が天つ神の御子を宿したは、至極当然のことと受け止めた。
天照大御神に連なる御子を産むに、姉ほどふさわしい女神はいないであろう。
ところが、姉は地上で赤子を産むなり、海底の綿津見宮へ、単身帰って来たのだ。
どうやら、天つ神・邇邇芸命の御子、山幸彦こと火遠理命の元へは、二度と戻るつもりはないらしい。
「サメの姿を見られたなど、取るに足らぬ事であろう!」
室内から父・綿津見神の怒号が聞こえ、玉依はとうとう堪え切れずに、扉を開け室内に駆け込んだ。
「父神様、どうかお静まり下さいませ」
玉依は庇うように姉の前へ立ち、何とかその場を取りなそうとした。
突然現れた玉依の姿に、ふっと我に返った綿津見神は、苦虫を嚙み潰したような表情をした。
「ソナタは口を挟むでない。去ね」
姉・豊玉は、顎を上げて背を伸ばし、正面を見据えたまま無言を貫いている。
「姉上様には、よほどの事情があったので御座いましょう」
「・・・・・・」
玉依の取りなす言葉にも、無言だった。
山幸彦からは、詫びの申し入れがすでに届いていた。
山幸彦はサメの姿を見て動転し、その場を去ったものの、すぐに産屋へ戻ったそうだ。
赤子を抱いた侍女から、ことの次第を聞かされ、「すまぬことをした」と猛省しているとのことだ。
「つまらぬ意地を張らずに、すぐに夫殿の元へ戻れ」
「・・・・・・」
玉依には、わかっていた。姉は二度と山幸彦の元へは戻らぬだろう。
姉は己の自尊心を傷つけた者を、決して許さぬ。
たとえ、天つ神である夫でも、目をつむったりはしまい。
姉の揺るがぬ誇り高さ、気高さは、多くの者の憧れであった。
「ソナタの産んだ赤子は、哀れだ。母親の後ろ盾なしで、天つ神や国つ神らから侮られねばよいが」
この時ばかりは、姉の視線が泳いだ。
やはり、赤子については心配なのだろう。
「いやはや、生き延びてくれれば良いが、それとて楽観は出来まい」
「・・・・・・」
父神は、明らかに豊玉の不安を煽っていた。
姉は正面を見据え、口元を固く結んだままだったが、青ざめた頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。
「後に思い返しても、なぜ自分があのような申し出をしたのか、わかりませぬ」が、玉依毘売の言だ。
ただ、憧れの、誇り高き姉の心が追い詰められいることに、耐えられなかったと言う。
玉依毘売は父と姉に宣言していた。
「お任せ下さい。ワタクシが姉上様の赤子のお世話に参ります」
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