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打ち上げ花火、一発目
花火大会の日は昼間から驚くほどの人混みだ。
普段は閑散としている商店街。シャッターが閉まっているお店のほうが多い。
しかしこの日だけは違う。息を吹き返したように、活気がある。
「五十年くらい前は、平日もこんな感じだったのかな」
二人用の小さいテーブルを挟んだ、向かい側に座っている彼が、お店の窓から通りを歩く人達を眺めながら言った。
「そうかもね」
テキトーに返事をしながら、私はテーブルの下で下駄を脱ぎ、足の甲をもぞもぞ動かしていた。
痛い。足が痛い。
詳細に述べるなら、足の親指と人差し指のあいだ、及び足の甲の鼻緒があたるところが痛い。
花火大会の会場は、長い商店街を抜けた先にある。そこまで辿り着ける気がしないくらい痛くて、もう耐えられなくて、商店街のカフェでひと休みしている。
「足、どう?」
彼がアイスコーヒーのグラスから口を離して、訊いた。彼はストローを使わない。
「うん、絆創膏つけたから、大丈夫」
本当は全然大丈夫じゃない。
皮はしっかり剥けてしまって、血が出ていた。念のために絆創膏を持ってきたけれど、全く保護にならないくらい、痛い。
だいたい、年に一度、履くか履かないか程度の下駄で、靴擦れをおこさないほうがおかしいのだ。私は侍でもないし、茶屋の娘でもないのだから。
私達がカフェにいるあいだに日は暮れ、時計は七時二十分を指していた。
「あと十分で始まるよ?花火」
と彼は言った。
「あ……うん」
彼は伝票を手に取り、さっさと会計に行ってしまった。
会計しておくから、ゆっくりおいで、という意味なのはすぐわかったけれど、急かされている気持ちにもなる。
私だってわかってはいるんだよ。ずっとここに座り続けていられるわけじゃない。もう充分すぎるくらい長居していることも。
下駄に足を入れるのが怖い。
でも履かないわけにはいかないので、そろそろと足を入れる。鼻緒が悪魔に見える。
キュッ。
いたっ!
半端なく痛い。刺すような痛み。
でも我慢、我慢。おしゃれは我慢て言うし。
私達はカフェを出て、花火会場に向かって歩いた。
「お会計、ありがとね」
「うん……すごい人混みだな。せっかく早めに出たのに」
ん?嫌みかな?
「ごめんなさい。やっぱり浴衣にしなければ良かったね。迷惑かけちゃって……」
しょぼんとして謝ると
「うーん、まあ、一年に一度しか着る機会もないからね」
と彼は言った。
いいよ、いいよ、気にするなよ、とは言わない。
少し、ほんの少しだけ、私はそれが引っかかった。
私が迷惑をかけたんだから、文句を言える立場ではないんだけど……。なんだろう、このモヤモヤは。痛みのせいで、ネガティブになっているのかもしれない。
私達が商店街を抜けて、花火大会の会場に到着したのは、午後七時二十九分だった。
「ねえ、ごめん。足、限界。痛い」
私は彼の左腕に捕まって、下駄を脱いだ。
鼻緒に血が滲んでいた。絆創膏のガーゼの部分は真っ赤になっていて、血が飛び出していた。
私が俯いて足を見ていたときだった。
「チッ」
確かに隣から聞こえたのだ。彼の舌打ちが。
恐怖と驚きが入り交じった気持ちで、私が顔を上げると。
ピュー、ドーン。
一発目の花火が上がった。
暗がりで、花火の灯りに照らされた彼は、私の知っている、穏やかな彼ではなかった。
ずっと後になってから、思う。
あの夏の夜が、終わりの始まりだった、と。
恋人同士が二人三脚で『お別れ』というゴールに向かって一歩踏み出した、あの夏の夜。
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