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夕方の六時を過ぎた頃。
ぼくは大きなスイカを両手で抱えて、庭先に突っ立っていた。庭には雑草がたくさん茂っている。
「夏は刈っても抜いてもすぐ生えるのよ」
そんなふうに、お母さんがグチっていたのを思い出した。
ここから木立を抜けて少し歩くと古い井戸があって、これはそこで冷やしたスイカだった。
空はまだ、ぼんやりと明るい。
ぼくは、二階の窓から漏れ聞こえる声に、耳を澄ませていた。
話しているのは、お母さんと、お母さんのお姉さんの愛子おばさんだ。
「突然おしかけてゴメンね。裕子、ゆうべは仕事だったんでしょ?」
おばさんはぼくに話しかけるとき、お母さんのことは「お母さん」という。だからお母さんを裕子と呼んだのは、きっとそこにぼくがいないからだろうけど、何だか冗談を言っているみたいだ。
「もう仕事は慣れたから、大丈夫」
「それなら良かった」
「それより、久々にね、あのおばあさんと話したんだ。ほら、あの子が生まれたときの」
「アリサおばあさん?」
「うん、よく覚えてたね」
ぼくは、しっかりと耳を傾けて開いていた。多分おばさんは「アリサ」と言っていたんだけど、ぼくはその名前に覚えがなかった。
「おばあさん、まだお元気だったなんて」
「うん、ホントに元気だった」
「生まれたばかりのあの子のこと、助けてくれたんだよね……もしアリサおばあさんがいなかったら」
「ううん、お姉ちゃん、それは違ったの」
「違った?」
「だって、今日、アリサ本人から聞いちゃったんだもん。元々はね、あのとき、アリサがあの子を――」
お母さんの声が、急に聞こえにくくなった。
風の音のせいだ。
少し強い風が、ぼくの身体をまるで巻き付けるように、急に吹いた。
それにしても、二人の話が、ぼくにはよく分からない。きっと、これは間違いなく、ぼくの話だと思う。だけど、助けてくれたっていうのは、何のことだろうか。
「あのとき、あたし、あの子をあの森の湖で見失って、もう頭がおかしくなりそうだった」
また、お母さんの声が聞こえた。
「たった一人だったし、誰かに助けを求めることだって、できなかったから」
「知ってるよ、その日の夜は、私も一緒にいたでしょ?」
「そうだったね、ごめん」
「裕子、子どもみたいにずっと泣いてた」
「うん……見つかったあの子を抱きしめたら、たまらなくなって」
ぼくは聞いてはいけない話のように感じて、だけど、そこを一歩も動けずにいた。
夏だというのに、夕方の風は少し冷たい。今度はゆっくりの風が、草むらのてっぺんを軽く撫でると、素知らぬ顔で吹き抜けていった。
「あの森で、あたしの前に現れたのが、アリサだったんだ」
「そうだったよね」
「彼女が魔法を使えることは、あたし、何となく知ってたから。だからすがりつくみたいに、お願いしたの。あの子を無事に帰してって」
「そこまでは、私も知ってる」
「でも、違ったんだよ。本当はそのアリサが、あの子が一人で勝手に森に入ったことに怒って、さらって行ったんだって」
ぼくは自分の耳を疑った。
「あのあたり一帯は、森も、湖も、アリサのものだったんだ。それも今日、初めて聞いたんだよ。でもそのときは、あたしがお願いしたら、すぐに返してくれた」
「ちょっと懲らしめただけ?」
「どうかな。だって返してくれるときに彼女は、あの子から視力を奪ったんだもん」
「えっ」
おばさんが驚いて聞き返したけど、ぼくだって同じ気持ちだった。だって変だよ。視力っていうのは確か、ものを見ることで、ぼくにはちゃんとものが見えてる。
「ううん、正確には視力じゃなくて、色を奪ったんだよね」
「色?」
「アリサはあの子に魔法をかけて、赤い色が緑に、緑色が赤に見えるようにしてしまったのよ」
その言葉の意味が分からず、ぼくは少しぼうっとした。
それから両手に抱えていたスイカを、何となく見つめた。
それはいつもと同じ色をしている。
お母さんや友達が、スイカの色を何と呼んでいただろう。皮は『緑』で、食べるところは『赤』だった気がする。ぼくだってそう呼んでいた。今もちゃんと、緑が緑に見えているのに。
「今日ね、アリサは笑いながら言ってたよ。この魔法の一番怖いところは、当の本人が、魔法のせいで赤く見える緑を、『緑』という名前で覚えてしまうことなんだって。まわりはみんな、そう呼ぶから」
難しい話になってきた。
ぼくは、背中を冷たい汗が流れるのが分かった。
「他人と違う色が見えてるのに、それに気づくことすらできないってこと」
ぼくは何度か瞬きをしたが、スイカの色は変わらない。風がざわざわしているせいか、それとも虫のさえずりのせいか、少しの間、お母さんたちの会話が聞き取れなくなった。
魔法。
魔法だって?
そんなの、嘘に決まってる。この世界に、魔法なんかないんだ。だけどおかしいのは、お母さんたちは二人だけで話していて、ぼくがいないのに、どうしてそんな嘘をつくのかってこと。
見上げると、空の色は、少し光を遠ざけてしまったみたいだ。
何だかちょっと、ぼうっとした。
きっと、少し時間が経ったと思う。
次に聞こえた声は、おばさんのものだった。笑っているみたいだった。
「あの子を見てると、幼い頃のあなたを思い出すわ。とっても表情が豊かでしょう。よく笑って、よく泣いて、すぐふてくされる」
「何よ、それ。あたしってそうだった?」
「うん。お母さんは手を焼いたと思うよ。私たちも、あの子も、父親がいないってことでは同じだけど」
そうだ。
ぼくは、お父さんの顔を知らない。
それにしても、魔法のことはどうなったんだろう。何だか、もう話が終わってしまったみたいだ。まるで、最初からどうでもいいことだったかのように。ぼくにとっては重要なことなんだけどな。
おばさんの声が聞こえる。
「あなたたちを見てね、私、後悔ばかりしてるよ。バカな時間をすごしてきたと思う」
「どうして、そんなことないよ。お姉ちゃんより、あたしの方が失敗ばっかりでさ」
「そういうことじゃない。本当は分かってるくせに」
また、おばさんが小さく笑うのが聞こえた。
「お姉ちゃん、結婚するんだね、その人と」
「うん。今日はそれを言いたくて来たの」
お母さんが、聞きなれない声で「きゃあ」と叫んだ。
「私、あなたたちみたいに生きたいんだ。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心で感じたものがすべてだと思っていたい」
「結果はどうあれ?」
ぼくには何となく、お母さんがおばさんを、からかったのだと分かった。
「そう、結果はどうあれ。だって、あなたはあの子を生んだじゃない」
「―― そうだね」
二人の会話の意味は、ぼくにはよく分からなかった。
両腕に抱えるスイカは、ずしりと重い。
いつものように、いつもと変わらず、胸に鮮やかな緑を抱え、心には瑞々しい赤を思い描いて。
「今日、アリサに聞いたんだ。魔法を解いてくれないのって」
お母さんの声がした。
「そうしたらね、もう解く必要なんかないでしょう、だってさ。それ聞いて、あたし、はっとしたんだ。もうあの子は、あの子だけの世界を生きてるんだよね」
ぼくは、何だか、駆け出したくなった。
玄関の扉を開けると、大きな声で「お母さん!」と叫んだ。
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