Episode6 泳げない魚たち

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 目の周りのシワは少し増えたかな……、中年太りとは無縁そうな痩せた腰回りは管理職の激務の影響か……、グラスを持つ手の甲は筋張り、肌はあの頃よりも浅黒く乾燥している。不味いと言いながらも吸っていた煙草は止めたのだろうか? 「それって結婚式の引き出物?」 「えっ? ……うん、そうなの。高校の友達の結婚式があったんだ」  年輪を刻む純の容姿をぼうっと見つめていた莉子は、彼の問いに一拍遅れて反応した。莉子の隣の椅子には引き出物の紙袋が鎮座している。  莉子が纏うワインレッドのレースワンピースも普段着ではなく、いかにも結婚式の参列者の服だ。 「これで高校の仲良しメンバーはみんな結婚しちゃって私だけが独身。久しぶりに集まったのに、披露宴でも旦那や子供の話題ばっかりで話についていけないの。親友も去年結婚しちゃったから、もう夜遊びにも誘えなくて」 「ははっ。莉子も友達の結婚式に行くような年齢になったんだな」 「私だって今年で32だよ」  唇を尖らせて莉子は純を軽く睨む。莉子の睨みなど純には子供が拗ねているようにしか見えないのか、アルコールで赤らんだ顔を優しい微笑に変えた。  一体、何歳に思われていたんだろう。32歳となる彼女を前にしても、彼の中では〈佐々木莉子〉はハタチの小娘のままで止まっている? 「昔は可愛かったけど、今の莉子はあの頃よりさらに綺麗になった。道端に美人がいて驚いたよ」 「酔ってる? もしかして口説いてる?」 「酔ってるし、口説いてる。大人の女になったな」  熱を孕んだ瞳と瞳がぶつかった。途端にざわつく心の海。穏やかだった水面は荒波で揺れ、ここからは危険だと警鐘を鳴らす。  咄嗟(とっさ)の上手い返しが何も浮かばず沈黙する莉子と、彼女の沈黙すらも愛しげに包む純の駆け引き。  鎮まらない胸のざわめきと、心の最奥の甘い痛みには覚えがある。ああ……これは危ない、すでに莉子の心中の戦いは本能と理性の一騎打ちだった。  居酒屋を出ると街には夕闇のカーテンが落ちている。むわっと肌に触れた湿気と熱の混ざった空気は熱帯夜の予兆。  どうすればいいかも、どこに行きたいかも答えが出ない男女はただ歩調を緩めて歩くしかなかった。  純の後ろを、莉子は人ひとり分の間隔を空けて歩く。長身の彼の身体越しに駅前の通りを見据えた。  あそこのコンビニの角を曲がれば駅舎に繋がる道に出る。道の先まで行けば、この夢は終わってしまう。 「新幹線の時間大丈夫? 間に合いそう?」 「……間に合わなくなっちゃった」 「え?」  立ち止まった莉子はバッグから取り出したスマートフォンの時刻表アプリを開いた。ここから東京までの乗り換え案内の画面を純に向ける。  純は戸惑いがちに莉子のスマートフォンを凝視した。 「あと2分で豊橋に行く快速の電車来ちゃうんだ。それに乗らないと最終の新幹線には間に合わない。こうなることがわかっていて、純さんを飲みに誘ったの。……ごめんなさい」  快速列車の到着時刻まで残り1分を切った。今から走れば間に合うかもしれない。  けれど莉子は走り出さない。今夜中に東京には戻らない。  青陽堂書店のビルの前で純と再会した時から、莉子はこの結末を予期していた。この結末を望んでいたと言ってもいい。  電車を見送った莉子の行動を純は責めなかった。「あと2分じゃ無理だよな……」と苦笑混じりの溜息をついた純は夜の帳が落ちた駅前のビル群を見渡した。 「この辺はビジネスホテル多いし、泊まる場所に不自由はしないね」 「まだ純さんと一緒にいたい」 「莉子……それは……」  触れた彼の指先が、ぴくりと動く。昔よりも筋が目立つ手の甲をそっと撫でた莉子の指先が純を絡め取った。 「今……彼女、いる?」 「いないよ」 「ほんとう?」 「俺が莉子に嘘ついたことある?」  振り払われるどころか、きゅっと握り返された彼の手は熱い。かぶりを振る莉子も純の骨張った指にさらに指を絡めた。 「莉子は彼氏は……?」 「浮気されて1ヶ月前に別れた」 「……そう」 「お互い決まった相手がいないなら私達の間に何かあっても傷付ける人はいないよね?」 「本気?」 「本気だよ。純さんは? 私が欲しくないの?」  答えがわかりきった問いを純に投げかける莉子はどうしようもない策士だ。案の定、本能と理性の狭間で瞳を揺らす純は髪をくしゃくしゃと掻き上げた。 「その返しはずるいなぁ……」 「酔った勢いで口説く純さんの方がずるい」 「……それもそうだよな」  攻防戦の敗北を認めた純が失笑すると、莉子も口元を斜めにして微笑んだ。繋いでいない側の手で彼は引き出物の紙袋を持ってくれた。  ふたりの歩みは真っ直ぐ駅の裏側に向かっている。毒々しいネオンで彩られたラブホテル街が熱帯夜を泳ぐ男女を妖しく誘う。  ホテルの部屋に入った瞬間に我慢の限界を超えた莉子と純は強く強く抱き締め合った。11年間叶わなかった愛しいぬくもりとの再会は抱擁だけでは足りない。 「莉子……莉子……」  耳元で純に何度も囁かれる自分の名前がくすぐったい。痩せた胸板から顔を上げれば、莉子を欲しがる男がひとり、唇を奪いにやってきた。それは優しい乱暴だった。 「……んっ、純……さ……ん」  唇も唾液も呼気も言葉も心も、莉子のすべてを奪う荒々しいキスの最中に腰をぐっと引き寄せられた。さらに深く繋がった口内でアルコールの味がするふたつの舌が唾液の音を響かせ絡み合う。  たくしあげられたスカートから容易く入り込んできた熱い手が莉子の下半身を弄り始めた。 「シャワーは?」 「ごめん、待てない。莉子さえ良ければ、このまましたい」  このやりとりは、まるで12年前の最後の情事の再現で笑ってしまう。大人の余裕を失くした純とキスを繰り返して倒れた先は柔らかなベッドの上。
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