Episode4 酔芙蓉の吐息

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{ねぇ莉子ちゃん、あなた東京で働いてみない?} 「東京って……伯母さんの会社で?」 {そうよ。新規事業でネイルサロンを作るの。場所は恵比寿、オープン予定日は来年4月よ}  やり手の伯母が新規開拓を狙っている業界がネイル業界。1号店である恵比寿店のオープニングスタッフを募集中らしく、スタッフにはベテランだけではなく、美容専門学校やネイルスクールを卒業したばかりの新人も求めているそうだ。 「新人でも雇ってくれるの?」 {当たり前よ。誰だって最初は新人なのよ。むしろ私は新人が経験を積む場所としてサロンを提供したいと思っているの。だから莉子ちゃんを誘ったのよ}  新人が経験を積む場を作りたい──、伯母の理念が莉子の心を激しく揺さぶる。お前なんかいらないと、お祈りメールの向こう側で吐き捨てられる無言の拒絶の連続に就活へのモチベーションも下がっていた。  このチャンスを逃せばネイリストの夢を手放してしまいそうで、必ずこのチャンスを掴み取らなければと、今の莉子の頭には恋や愛の単語は吹き飛んでいた。  もちろん返事はイエスの一択だ。それが後々、どういう意味を持つかなど考えずに。 {今月に一度そっちに帰るから、莉子ちゃんの現在の技術がわかるようなネイルの作品をひとつ作ってその時に見せてちょうだい。それが面接代わりよ} 「作品のテーマはある?」 {そうねぇ……莉子ちゃんもハタチだから、成人式のネイルでどう?} 「わかった! 頑張って作ってみる」  東京はいつか行ってみたいと思っていた憧れの場所。東京のネイルサロンに採用された同級生の松川七菜に嫉妬の感情は湧かなかったと知咲の前では強がっていたが、あれは半分は嘘だ。  嫉妬とは、同レベルの者同士に発生する負の感情だと莉子は思っている。あまりにも成績のレベルが違いすぎたり、あまりにも容姿の整い方が違いすぎれば、嫉妬すら抱かない。  あちらとこちらが同レベルだと思うから、アイツには負けたくない、どうしてアイツが……と、負の感情に蝕まれるのだ。  だから自分とネイルの技術やセンスが段違いの松川七菜には、羨望はあっても嫉妬なんて……そう、思っていた。  羨ましいの感情にかすかに混ざる黒い心を莉子は見ないフリをしていたのだ。  これで松川七菜と同じラインに立てるとは思っていない。ネイルコースの教師にも正直に、伯母からの誘いだと言うつもりだ。  親戚のコネであれば七菜のように掲示板への名前の張り出しの特別扱いもされないだろう。  その方が気楽である。同級生達の嫉妬の渦に巻き込まれるのは勘弁したい。  松川七菜も掲示板への内定決定の張り出し以降は嫉妬に狂った同級生から陰口を叩かれたりしている。優秀な人も大変である。  莉子の住む地方は関東地方ではない。莉子にとって東京との距離感は物理的にも精神的にも、そこまで遠くもないが気軽に遊びに出掛けられるほど近くもない。  上京は純との別離を意味している。窓を開けた彼女はベランダで一服する純の横に立った。  秋晴れの空は絵の具みたいに綺麗な青。その青にゆらゆら流れる紫煙を目で追いながら、彼女は呟く。 「東京に住む伯母さんからの電話だった。東京に新しく作るネイルサロンで働いてみないかって誘われたの」 「そっか」 「就活、上手くいってなくて、全然ダメなの。伯母さん、そのことをお母さんに聞いたらしくて……」 「そうなのかなとは思ってた。学校の話はしてくれるのに就活のことは話したがらなかったよね」 「内定もらえずに何社も落ちてるって恥ずかしくて言えなかった」  純は何も言わなかった。煙草を片手にした純と部屋に戻り、作りかけのホットケーキを莉子が焼く間も彼は焦げ茶色のソファーに座り込んで煙草を吸い続けている。  純とは離れたくない、でも東京には行きたい。どうすればいい?  出来立てのホットケーキを載せた皿の前で「いただきます」と互いに小声で手を合わせる。黙々とホットケーキを咀嚼する純の顔色を窺った。 「東京……行ってもいい?」 「それは俺に聞くことじゃないよ。莉子が決めることだ」  優しく言われた最も残酷な言葉。目の前の彼は穏やかで優しかった。  だけどわからない。だからこそ、わからない。彼の本音がわからない。 「私達、離れちゃうんだよ?」 「そうだね」  たった一言で返された言葉に莉子は愕然とする。  ほんの少し、期待していた。「遠距離になっても莉子を好きな気持ちは変わらないよ」「ふたりでずっと一緒にいられる手段を考えよう」……そんな甘い言葉の羅列を待っていた自分が馬鹿みたいだ。 (勝手だってわかってるけど反対して欲しかった。少しくらい、寂しいとか嫌だとか、駄々をこねて言って欲しかった)  泣きたいのにここで泣くのは違う気がして、泣けばすべてが終わる気がして、だから泣くのは我慢した。  冷めてしまったホットケーキの味を莉子は覚えていない。味なんか何も感じなかった。
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