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Episode5 沈殿する夏、静止する冬
面接の形で伯母と対面して以降、莉子の就職話はトントン拍子に進んだ。母親と義父にも上京の許可は得た。
10歳の弟は「姉ちゃん遠くに行かないで」と泣いてすがってくれた。遠くには行くけれど会えなくなるわけじゃない。
家族や友達とは、会おうと思えば離れた場所に住んでいようと会えるものだ。どうしてそれが、恋人だと難しくなる?
上京話が本格化していくことは嬉しくもあり複雑でもあった。旅立ちのその時まであと何度、純と一緒に過ごせる?
就職の話は莉子と純の間では禁句だった。莉子は純の前では上京の話題は持ち出さず、純も詳細を聞きたがらない。
ふたりはこれまでと変わらずデートを重ねて楽しい時間を過ごした。それが現実から目をそらしただけの延命行為だとしても決定的な別離の言葉をどちらも口にできなかった。
いつか訪れるサヨナラの時を早めてしまう事態を莉子も純も恐れていたから。
純は一度も「東京に行くな」とは言わなかった。「よかったね」と哀しげに優しく微笑むだけで、就職祝いと称して11本の赤い薔薇の花束を贈ってくれた。
「どうして薔薇を11本にしたの?」と尋ねても純は曖昧に笑って真意を教えてはくれなかったけれど。
「行くな」と言われても困ってしまうのに、一度も「行くな」と言わない純の態度に莉子は寂しさを感じていた。
一度でいいから「俺の側にいろ」と言って欲しかった。永遠に側にはいられないと、わかっていても。
*
だましだましに別離の期限を先延ばしにしてやり過ごした10月を終え、季節は11月を迎えた。
11月最初の土曜日にその女性は青陽堂書店にやって来た。時刻は莉子と純の勤務が終わる30分前、17時半頃だった。
ウェーブをかけた茶髪のボブヘアの女性が、レジカウンターに商品を差し出す。彼女の購入品は小学生対象の学習ノートが3冊と、クリアファイルのセット、花柄のメモ帳とボールペンが2本。
「いらっしゃいませ」
会計業務をこなしつつ、莉子は女性を盗み見た。茶髪のボブヘアの女性は少なくはないが、この女性を以前もどこかで見た気がする。
(常連さんかな? 仕事終わりのOLさんもよく来るから、前にお店で見かけたことがあっても変じゃない)
「ありがとうございました」
袋詰めした商品を女性客が受け取る際、彼女の左手薬指に指輪を見つけた。あの3冊の学習ノートは子供が使う物だろう。
女性は莉子を一瞥しただけで、背中を向けて去っていった。
勤務後、通路やエレベーターホールですれ違う同僚達に挨拶を告げて莉子は青陽堂を後にする。純と落ち合う場所に決めている八丁通りのいつもの公園に向かうと、長身の影の近くにその影よりも小さな人影が見えた。
街頭の灯りの下、高さの違うふたつの人影が向かい合っている。暗がりの公園に見つけた純の顔は、莉子が今までに見たことがない闇を孕んだ表情をしていた。
純と向かい合う人影は、先ほど莉子がレジで会計を担当したあの茶髪ボブの女性だった。
「莉子、お疲れ」
どうしたらいいかわからず立ち尽くす莉子に気付いた純が、こっちへおいでと手招きしている。
それで初めて莉子の存在に気付いたらしい女性が遠慮がちに純に駆け寄る莉子をまじまじと眺めた。謎の女から注がれる視線はあまり気分のいいものではなかった。
「あなた……あのお店の店員さんよね? まさか、そういう関係?」
「だったら何?」
穏和な彼には珍しい冷たい声色に、自分に向けられていないとわかっていても無意識に莉子の身体が強張る。この女性の正体について莉子が感じた本能的な直感は当って欲しくなかった。
「あなたいくつ?」
「……ハタチです」
「ハタチっ? うわぁ……。純、あんたとうとうこんな若い子にしがみつくようになったの? 未成年じゃないだけいいけど、ひと回り以上離れているじゃない」
「俺が誰と付き合おうと由貴には関係ないだろ」
慣れた口調で互いの名前を呼び捨てにし合うふたりのやりとりが、莉子の直感を確信に変える。ああ……やっぱり、そうなんだと、莉子の心の穴にはその事実がすとんと落ちた。
この女性は純の恋人だった人だ。いつの頃の恋人かはわからない。けれど莉子と出会う前の純を知っている女性だ。
莉子と同じように、純とキスをした女性。莉子と同じように、純に抱かれた女性。
できれば知りたくなかった。できれば会いたくなかった。
「そうね。付き合うだけなら関係ないよ。……彼女、少し借りていい?」
「は?」
「え?」
たとえるなら「ボールペン借りていい?」と同じ調子の由貴の提案に、莉子と純は同時に戸惑いの表情を浮かべた。
「そんなに時間は取らせない。純はどこかで暇でも潰していてよ。ね、少しお話しようよ。お茶とケーキくらいならお姉さんが奢ってあげる」
純が抗議の声を上げる前に、莉子は由貴に腕を引っ張られて公園から連れ出されてしまった。為す術もなく莉子を見送る純の顔は、やはり冴えない。
莉子が連れて行かれた先は八丁通り沿いの大型チェーン店のカフェ。先にオーダーと会計を済ます形式の店だ。
奢ってくれると言うのを莉子は丁重に辞退して自分の分のカフェラテの代金を支払った。ケーキは食べないの? と由貴に聞かれたが、こんな状況で甘いものを口にする気にはなれない。
「自己紹介がまだだったね。真瀬由貴よ。真瀬は旧姓ね」
「佐々木莉子です。あの、純さんとは……いつ……」
「純とは大学の同級生で、大学卒業して互いに23になる歳まで付き合ってた。私の人生設計では、そのまま24で純と結婚するはずだったの。25歳までには子供をひとりは産みたかったから」
何歳までに結婚して何歳までにひとり目を出産したい……その人生設計のこだわりについては、莉子にはよくわからない。やっと就職先を決めたばかりの莉子にはその先の未来のビジョンが真っ白だった。
「お子さんがいらっしゃいますよね? 小学生向けのノートを買われていましたし……」
「26歳で産めば、36には小学生の母親になってるものよ。今日は子供はジジババの家にお泊まり、旦那は会社の飲み会」
子供と夫がいる身で元彼が勤めている店に出向く彼女の行動を疑問に思うが、どこで買い物をしようと彼女の自由だ。
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