Episode5 沈殿する夏、静止する冬

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 実家を訪れた翌週の木曜日、休憩時間に入った純は男子トイレの前で下劣な会話を耳にした。  声の主はひとりは同僚の井上康介と判明した。もうひとりは純も過去にエレベーターで何度か遭遇したことがある2階フロアの従業員だ。  双方の気安い話しぶりや、男が井上を先輩と呼ぶことから彼らの間柄は大学の先輩後輩の関係だと短い時間に推察できた。  男子トイレ前の廊下でふたりの会話に聞き耳を立てる。盗み聞きなど普段はしない彼が思わず足を止めてしまったのは、聞き慣れた名前が彼らの話題に登場していたからだ。  業務時間中は井上は莉子を苗字で呼ぶが、莉子本人がいない場ではたびたび彼女を「莉子ちゃん」と気安く呼んでいる。井上が莉子の名をまるで自分の恋人であるかのように口にする様が純は気に入らなかった。  彼らの話は聞くに堪えない内容であった。  莉子の彼氏の有無から話は発展し、仕事中は莉子の胸を見て癒やされている、自慰のオカズにして楽しませてもらっていると井上が口にすれば、2階フロアの男性従業員もエレベーターや廊下で見かける莉子の胸や尻に活力をもらえる、一度でいいから相手をして欲しいと嘆いていた。  莉子は若い男性従業員の間では性的な話題の的になっていた。アルバイトであっても採用条件が18歳以上の青陽堂書店では、当然のごとく女子高校生のアルバイトはいない。  純はすべての従業員の顔や年齢を把握してはいないが、ハタチの莉子と同世代、または莉子よりも年下の女性店員は現在の青陽堂では見かけない。  恋人の贔屓目(ひいき)はあっても、莉子は目鼻立ちの整った美人だ。可愛さと綺麗さのバランスがちょうど良いと純は常々思っている。  スタイルも申し分ない。最近は益々、胸の膨らみが増したと莉子を抱くたびに実感する。  男は皆、若い女と美人と巨乳に弱い。それは男の性別を持つ純も認めざるを得ない。  加えてハタチの誕生日を迎えて大人の女に近い色香を醸し出してきた莉子が男達の話題の中心となるのも必然だった。  客や一緒に働く男性店員達の視線が莉子の身体に注がれる場面を純も何度か目撃している。  レジの最中に男性客が莉子の胸にやらしい眼差しを送る場面も、床に落ちた物を拾う時やダンボールの荷物を降ろす時のジーンズ越しに現れる下半身の曲線美に男性店員が釘付けになる場面も純は見ていた。  黒い嫉妬心と大事な莉子が男どもの卑猥な視線に晒されている嫌悪感で吐き気が込み上げる。  そしてそんな莉子を独占できる存在が自分である事実が、純を馬鹿でくだらない優越感に浸らせてくれた。  木曜日は18時に勤務が終わる。フルタイム勤務に疲れた身体を気力で動かして、純は1階の社員通用口の扉を開けた。  通用口を出て数歩進んだ先に真瀬由貴の姿があった。純を見つけた由貴が妖しい微笑みを携えて駆け寄ってくる。 「今日は何の用?」 「子供の物を買いに来たのよ。さっき、お会計してくれたでしょう?」 「もう夕飯の時間じゃないのか。子供放ってよく平気だな」 「この時間は塾の真っ最中だもの。20時までは母親業務から解放される自由時間」  比較的温暖な気候であるこの地方でも11月の夜は冷える。由貴の服装は薄手のニットで、突き出たふたつの胸が純の二の腕に触れた。  そんな格好では夜は寒いだろうに上着も羽織らず、わざとらしく胸を誇示する由貴に嫌気が差す。 「お店に莉子ちゃんいなかったね。あの子は木曜が休みなの?」 「わざと莉子がいない日を確認して待っていたんだろ?」  由貴はこれまでも何度か青陽堂書店の文具フロアに現れていた。純は由貴の気配に気が付かないフリを決め込んでいたが、莉子は8月の終わり頃に由貴の存在に初めて気が付いたと言う。  莉子が知らない事実がある。由貴の来店は夏以前、今年の4月頃から始まっていた。  4月から駅ビル内の料理教室に通い始めた由貴は教室に向かうついでに駅前に所在する青陽堂本店へ立ち寄り、文具フロアで働く純の姿を見つけたとか……先々週、八丁通りの公園で由貴と交わした会話の断片が甦る。  由貴と別れる直前、まだ青陽堂の新入社員であった純は駅前の本店勤務ではなく支店の事務所に勤めていた。本店配属は由貴との破局以降になり、彼女が純の現在の勤務先を知らなかったのは当たり前だ。  昔の男を偶然見つけて、待ち伏せて迫る。互いに特定の相手がいなければそれも寄りを戻すきっかけとなるかもしれない。  しかし純には莉子がいる。由貴にも夫と子供がいる。  それでも由貴は純を待ち伏せ、甘えた顔ですり寄ってきた。  こんな計算高い女だったか? と自問して、こんな計算高い女だったなと自答する。  大学時代、まだ付き合う前にも由貴の大きな胸を身体に押し当てられたり、帰りを待ち伏せされて迫られた遠い日を純は苦虫を噛み潰したような顔で回顧した。  同じ計算高く迫るとしても、帰りたくないと駄々をこねたあげく下着を身に着けずに風呂場に侵入して純に迫った莉子のことは、嫌気が差すどころか可愛いと思えた。  由貴と莉子の違い、昔の自分と今の自分の違いを少しの時間に考える。ふたりの女の違いは性格の素直さの問題だろうか。
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