Episode5 沈殿する夏、静止する冬

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 駅前の駐輪場に足を向ける純の隣を由貴は我が物顔で寄り添って歩いている。駐輪場の手前で彼女は溜息交じりに呟いた。 「主人、会社の女の子と浮気してるの」 「そう」 「聞いた話だと浮気相手は新入社員だって。新入社員ってまだ23歳よね? どいつもこいつも男ってどうして若い女が好きなのかな」  由貴の言葉はどこか刺々しい。どいつもこいつも、の男の中には自分も含まれていると彼は悟る。 「俺は莉子が若いから付き合っているわけじゃない」 「ふぅん。もしも莉子ちゃんがあと10年歳を取った30歳だったとしても、好きになっていた?」 「そうだな、好きになってたよ」  馬鹿馬鹿しい質問だと思った。莉子が20歳でも30歳でも、莉子は莉子だ。  純も由貴も年齢分の見た目が老いただけで大学時代と本質は変わっていない。人の本質は年齢を重ねただけは到底変わらないものだ。 「でも好きでも、30歳の莉子ちゃんとだって結婚はしなかったでしょう? あなたは誰とも結婚をしない、そう私に言ったのよ」  純は無言を貫くことで肯定を示した。親との確執を抜きにしても年齢差や莉子の将来を考えれば莉子との結婚は望めない。  自分の存在で莉子の可能性を縛りたくなかった。 「このまま黙って東京に送り出す気?」 「それ以外の選択肢は他にないだろ。莉子の人生はこれからなんだ。こんな田舎で、結婚の約束もできないつまらない男に捕まっているよりも東京でやりたい仕事をやった方があの子のためになる」 「ご立派で大人な考えね。私の時は相手の人生まで考えなかったくせに」  闇夜に由貴の顔が近付いてくる。完全に不意打ちだった。  触れた唇の感触は莉子とは違う女のもの。首元を強く引き寄せられ、たたらを踏む純を捕まえた由貴はさらに純の唇を求めた。  由貴の香りが鼻をかすめて懐かしいような、けれどほろ苦い感情が押し寄せる。  粘着く唾液の音と唇同士が擦れる音が実に卑猥で不快だった。こんなにも不愉快なだけのキスをどうして、何故、強く拒めない?  長いキスを終えて唇を離した由貴が純の胸元にしなだれかかった。 「ねぇ、純……。莉子ちゃんとの関係が終わってからでいい。私と付き合って」 「……旦那に浮気されたから浮気し返すのか?」 「それだけじゃない。私、やっぱり純が一番好きなのよ。結婚をゴールにしない恋愛だったら、あなたもアリなんでしょ? 恋人じゃなくてもセフレでもいいよ。私も旦那とご無沙汰なのよ。莉子ちゃんがいなくなってから、お互いの寂しさを慰め合おうよ」  由貴の甘えた声に一瞬でも(うず)いた心は、かつて由貴を愛した過去の自分の残骸だ。由貴が好きだった、愛していた。  けれどそれはもう、セピア色の過去に過ぎない。 「悪いけど、由貴との関係は俺にはもう終わったことだ。莉子と別れた後でもお前とはやり直さない。身体の関係だけでいいなんて冗談でも口にするなよ」 「……冷たいね」 「当然の結論だ。今後は客として来ても、二度と俺の帰りを待たないでくれ。莉子とも会おうとするな」 「わかってるわよ。莉子ちゃんも私には会いたくないだろうしね」  彼氏の元カノと遭遇して嬉しい女はいない。莉子は由貴について第一印象よりは良い人だったと評価していたけれど、それは由貴が莉子に対して年上の女の余裕を取り繕っていただけだ。  ウェーブをかけた茶髪ボブの毛先が純の胸元を離れていく。彼女の目元の潤みに純は気付かないフリをした。ここで泣くのは卑怯だろう。  涙で誘っても、純は由貴を受け入れる気はない。不倫の片棒を担がされるのは勘弁したい。 「女心をまったくわかっていないあなたに、ひとつ忠告しておく。女はね、無駄だとわかっていても引き留めて欲しいのよ。男がプライドかなぐり捨てて自分を必要としてくれる姿を見たいのよ。私だって、別れを切り出した時に本当はあなたに引き留めて欲しかった」 「何が言いたいか、さっぱりわからないな」 「〈物わかりのいい優しいオジサン〉も、女からすればつまらなく映るってこと。じゃあね」  くるりと向きを変えた由貴のヒールの足音が遠ざかる。寒そうに腕を擦って横断歩道を渡った彼女は、すぐに駅前の雑踏に溶け込んで消えた。  寒いなら最初から上着を羽織ればいいのに。彼女が肩にかけていたトートバッグからは女物と思われる上着が覗いていた。  大方、寒そうな素振りを見せて純の上着を羽織らせてもらう計画だったのだろう。そういうところが、由貴は素直じゃない女だった。
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