Episode5 沈殿する夏、静止する冬

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 家に帰っても何もする気が起きなかった。インスタント食品で義務的に食事を済ませ、純はベッドに寝そべった。  由貴と別れたのは純と由貴が23歳になる年の冬だった。ちょうど今ぐらいの時期に由貴は純に結婚を迫った。  25歳までにはひとり目の子供を産みたい、30歳までには庭付きのマイホームが欲しい……瞳を輝かせて人生設計を語る由貴を、純は疎ましく感じるようになっていた。  結婚の意思がないと表明した純に由貴が別れを切り出すまでそう時間はかからなかった。  押し寄せる罪悪感は、不意打ちであっても由貴と唇を重ねてしまったことによる莉子に対しての罪悪感か、過去に若さゆえの配慮のなさで傷付けた由貴に対してか……。  自分は結局、どちらの女も幸せにはしてやれない。  由貴は旦那も子供もマイホームも30歳になる前には手に入れたらしいのに、36歳の彼女は幸せそうには見えなかった。そんなものだろう。  脳裏に浮かぶのは莉子の笑顔だった。莉子に会いたかった。  ベッドの上で鈍いまどろみを繰り返した何度目かの覚醒時、純は車のキーを掴んで家を飛び出していた。  後先考えずに莉子に会いたい一心で彼女の自宅まで車を走らせていた純は、莉子への連絡を失念していた。莉子にも彼女の生活がある。  事前の知らせもなく訪ねては迷惑かもしれない。そもそも今夜の純の行いは莉子が独り暮らしだからこそ可能であり、彼女が親と暮らしていれば夜に男が自宅を訪問だなんて愚行はできるはずもない。  だが、すでに純は莉子のマンションの部屋の前に佇んでいた。引き返そうにも足が動いてくれない。莉子の顔を見るまでは帰る気にはならなかった。  呼び鈴を鳴らすと、ややあってスピーカーを通した莉子の声が聴こえてきた。 {……はい} 「莉子、俺だよ」 {純さんっ?}  莉子の自宅のインターホンはテレビモニター付きだ。向こうからは部屋の前に佇むこちらの姿が見えている。  慌てた様子の莉子が、開いた扉から顔を覗かせた。 「どうしたの? こんな夜に……」  彼女が言い終わらないうちに扉の隙間から部屋に押し入った。驚く莉子の顎を掴み上げ、無理やり上を向かせた彼女の紅色の唇に口付けた。  いつもは唇と唇を擦り合わせた軽めのスキンシップを楽しんだ後に徐々に互いの繋がりを深くしていくが、今日のキスは最初から深い。軽めのキスを楽しむ余裕が今の純には皆無だった。  莉子の口内に差し込んだ舌先が彼女のそれを求めて暴れ回る。戸惑う莉子を舌先で捕まえて、逃さない。  莉子の唇は歯磨き粉の味がした。純の来訪は寝る前の歯磨きの直後だったようだ。  由貴とのキスを忘れるために、莉子の唇を無我夢中で貪った。キスの最中に漏らされた莉子の苦しげな吐息も次第に甘く変化する。  単身者用の狭い玄関で抱き合う男女は、そのまま部屋にもつれ込んだ。  ベッドに押し倒した莉子の部屋着を脱がそうとする純を、珍しく莉子が制した。 「あっ、あの、今日はちょっとダメ。その……」 「生理?」 「じゃなくて……。パンツ……可愛いやつじゃないし、古いパンツだから毛玉が沢山ついてるの。見られるのは恥ずかしい」  ゴニョゴニョと今夜が万全な下着ではないことを恥じる莉子が愛らしい。男にしてみればそんなことで終わる話だが、女にとっては情事に挑む時の下着の選別は重要事項らしい。  純は「そんなこと……」と言いかけて口をつぐむ。言い方を考えなければ莉子の機嫌を損ねてしまう。  莉子より16歳も年上であることで生じる大人としての矜持(きょうじ)と男の煩悩の狭間で彼は悩んだ。  本当は大人でもなんでもない。歳だけを重ねただけのただの雄だ。早く莉子を抱きたい、頭にはそれしかない。  莉子の耳たぶを甘噛みすると華奢な肩がピクッと跳ねた。そのまま唇を首筋に滑らせつつ、弱々しい抵抗を見せる莉子の両手をベッドに縫い止める。 「莉子のパンツが毛玉だらけだろうと、幻滅したりしないよ」 「本当? がっかりしない?」 「しない。毛玉ができた古いパンツを履いてる莉子は、物を大切にする子だなって思う」 「それは過大評価が過ぎるよぅ。白状すると古いパンツはゴムが緩くなるから履いていて楽なだけなんです……」  くすっと笑った莉子が可愛くてたまらない。昂ぶる情欲にブレーキをかけて自制しなければ、乱暴に抱いて壊してしまいそうだ。  あの熱帯夜の情事のように、ぐちゃぐちゃに交ざりあってひとつになりたい。脱ぎ散らかしたふたり分の衣服がベッドの下に散らばって、最後に莉子が恥じた毛玉付きのパンツが服の山の頂上に着地した。  莉子の内部に己の一部を挿入する時、彼は無性に莉子を(はら)ませたくなる。  莉子が妊娠すれば、彼女は自分のもとを去らないのでは……そんな考えに陥る自身の心が怖かった。  幻滅されるなら古くなった毛玉付きのパンツを愛用する莉子ではなく、こんなどろどろとした、醜い男の欲望を抱く自分の方だろう。  貪りつくように掻き抱いても莉子は受け入れてくれる。本当は甘やかさなければならない側は年上の純なのに、莉子は純を甘やかしてくれる。  莉子との繋がりから与えられる甘美な快楽に酔う傍らで、由貴に言われたあの言葉が呪いのように純の心を侵食する。  ──「女はね、無駄だとわかっていても引き留めて欲しいのよ。男がプライドかなぐり捨てて自分を必要としてくれる姿を見たいのよ」──  男のプライドも年上のプライドも、かなぐり捨てられるなら捨ててしまいたい。言えるものなら言いたい。 「東京に行くな」と。「側にいて欲しい」と。  永遠も一生も口にできないくせに。幸せにする約束もできないくせに。  誓いの言葉も誓いの指輪も贈れないくせに。莉子の人生の足枷(あしかせ)にはなりたくないのに。  どうしようもなく、純の人生には莉子だけが必要だった。  どこにも行かないで側にいてくれ……言葉にできない想いをすべて、彼は己の一部に託して莉子の内部で爆発させた。
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