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Episode6 泳げない魚たち
新しい年を迎えて暦は3月になった。今日は分厚い曇り空から今にも雨が降り出しそうな肌寒い天気だった。
こんなに寒ければ桜も固い蕾のまま居眠りしてしまうだろう。
現在時刻は午前10時過ぎ。ドレッサーの鏡に向き合う佐々木莉子の表情は真剣そのものだ。
化粧崩れしにくいと話題のセミマットのファンデーションで肌を仕上げ、睫毛にはロングタイプのマスカラを丁寧に塗っていく。
チョコレートブラウンのアイラインを目の形に沿って細く仕込み、チークはローズブラウンを使って大人の女モードを一匙加える。
昨夜、スクラブとリップパックを施した唇はピンクベージュのルージュに彩られた。
ロングヘアーの毛先を軽く巻き、足首とウエストにはお気に入りの香水をワンプッシュ吹き掛けてデートの準備は完了。ウエストから立ち昇るフローラルフルーティーな香りが、沈みがちな彼女の心を癒やしてくれた。
今日で終わる。現実逃避の夢が終わる。
マンション前の道には見慣れた黒の車があり、運転席には煙草を咥える竹倉純の姿が見える。莉子が助手席の扉を開ける直前、彼は灰皿に煙草を捨てた。
「おはよ」
「おはよう」
デートの最初の挨拶はいつまでも照れ臭い。車内にUN-SWAYEDの音楽が流れ始めて、最後のドライブが始まった。
「莉子が辞めて井上くんが寂しがってたよ」
「最後の勤務の時、井上さんいなかったから挨拶できなかったんだよね」
莉子は2月末で青陽堂書店のアルバイトを辞めた。学校卒業と上京を控えて今月はいろいろと忙しく、バイトどころではない。
井上も大学の卒業間近で忙しいのか、年明けの勤務以降は彼と一緒に働く機会はほとんど訪れなかった。
「井上くん、俺達が付き合っているの知ってた」
「本当に? いつ頃から?」
「俺達が一緒にいるところを街で見掛けたことがあったって。それがいつ頃かはハッキリとは言わなかったね」
「井上さんに何か言われた?」
「竹倉さんが彼氏だったんですねとは言われた。色々と思うとこはある人だけど、莉子が辞めるまでは黙っていてくれたことは感謝だよね」
純は笑い話にしているが、本当は嫌味のひとつふたつ言われたかもしれない。
(純さんが井上さんに失礼なことを言われていないといいけど……)
井上は一見すると陽気な人間だ。けれど、莉子は井上の本当の顔も彼の性格のすべてを知らない。
井上から恋愛感情に通じる好意を持たれていたのか莉子は今でもわからないが、それなりに親しくしていたバイトの後輩が、実は年上の社員と交際していたなら、少しくらい揶揄もするだろう。
「井上さんと気まずくなったりしてない?」
「井上くんも大学卒業までの勤務だから今月一緒のシフトも数えるほどしかないし、まぁ大丈夫だよ」
どこまでも続く白い空が憂鬱を加速させる。楽しいはずのドライブデートも今日は会話が弾まない。
最後のデートはあえてのノープラン。映画を観たりショッピングモールに入りたい気分でもない。
道中に見つけたイタリアンレストランで昼食を済ませ、あてのないふたりのドライブは続いた。
次第に市街地から離れていく景色を見て急に心細くなった。
「どこに行くの?」
「莉子を連れて行きたい場所があるんだ」
車が対向車の少ない片側二車線道路を通って一本道に入った。車窓を流れる風景が莉子の胸に冷や汗を落とす。
「えっと……山?」
「山だね」
「そんな軽い調子で言わないでくださいっ!」
「この景色を見て海とは言えないだろ」
楽しげに冗談を口にする純と行き先が見えずに不安がる莉子の軽口で途端に車内に明るさが宿った。
フロントガラス越しの視界には寒空の白色と枯れた木々の茶色しかなく、彼は車のナビも見ずに鬱蒼とした山道を登っていく。
こんな辺鄙な場所に何がある?
やがて開けた場所に出た。駐車場のようだ。
「気持ち悪くなったりしてない?」
「そんなに揺れなかったし大丈夫」
不思議なもので山を登った感覚はない。しかし駐車場からは莉子の住む街の景色が一望できた。
「ここから少し歩くから足元気をつけてね」
「はーい」
今日のブーツのヒールは高い方ではない。補整されている遊歩道とは言え、まさか山道を歩く事態になるとは思わなかった。
「私のブーツのヒールが高かったら、純さんを末代まで呪うところだったよ」
「まるでクレオパトラの鼻が低かったら、みたいな話だな。莉子の靴のヒールが高かったら、違う場所を選んでいたよ」
ふたりは手を繋いで遊歩道を歩く。森に囲まれた小道はどんどん山奥に入っていくから冒険気分が味わえて楽しかった。
息を弾ませた頃に見えて来たのは灰色の鳥居と社だ。
「神社?」
「ここに神社があるの知らなかった?」
「うん。初めて来たよ」
地元に住んで20年、こんな山の中に神社があるなんて莉子は知らなかった。
山の中腹に位置する上社の前で立ち止まる。
純はこの道を歩き慣れているみたいだった。車でもナビを使わずに運転していたから、この場所へ来たことがあるようだ。
「莉子の夢の成功を祈らせて」
彼は財布を取り出して賽銭の用意をする。莉子の分も合わせて賽銭箱に小銭を投げ入れた。
ふたりで手を合わせて目を閉じる。
莉子は神の存在をあまり信じない質だ。熱心な信仰心も持ち合わせていない。
夢想家に見えて現実主義。案外ドライな一面を彼女は隠し持っている。
だからこうして手を合わせていても神への願い事はひとつも浮かばない。せっかく純に連れて来てもらって悪いが、莉子は祈りを諦めてすぐに目を開けた。
純はまだ目を閉じていた。手を合わせて彼は熱心に何かを祈り続けている。
その横顔を盗み見て複雑な気持ちが湧き上がる。
(私の夢の成功を……と言っていたけれど、そんなに一生懸命、本当は何を祈っているの? 私のこれからの未来にあなたはいない。それなのにどうして?)
存在も定かではない神に向けて、彼は何を祈っている?
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