Episode6 泳げない魚たち

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 好きなだけ莉子を犯して疲れきった純はシャワーを浴びる余裕もなくそのまま眠りについた。莉子も寝息を刻む彼の隣で酷使した身体を休める。  汗と体液のすえた匂いを感じてシャワーを浴びたいと思うのに、身体が重くて動けない。子宮や腰、脚も痛い。明日は筋肉痛を覚悟しなければ。  もうすぐこの夢は終わる。  現実逃避の夢は終わりに近付いている。  これがドラマならば男が目覚める前に女は姿を消しているだろう。莉子がもしもスパイなら色事を交わした男が眠る隙に、敵国の機密情報を盗み出して華麗に逃亡している。  そんな非現実的な妄想をしても、これは夢ではなく現実で、莉子はドラマの女スパイではない。  純が目覚める前にここから消えることもできなくて、純の寝顔を永遠に見つめていた。  彼は莉子の肌を綺麗だと褒めてくれる。手入れをしている効果はあるけれど20代の年齢が出せる肌の質感があるんだろう。  肌の質感にはどうしても年齢が現れる。36歳の彼の肌は莉子と純の埋められない年の差の象徴だった。  ホテルを出ると外は真っ暗だった。思った通り外観の毒々しいピンクとグリーンの配色は闇に沈んで色を失っている。  建物はライトアップされて夜空に妖しく浮かび上がり、ラブホテルは夜に存在意義のあるホテルなんだと実感する。  ホテルの駐車場を出た車が夜の街を走り出す。田舎道から賑やかな大通りに出て、混雑するレストランで夕食の時間を過ごした。  普段は耳障りで煩いと感じる店内の客達の話し声に安堵したのは、莉子と純の口数が少ないからだ。ほとんど料理の残っていない食器の横に彼女は銀色の鍵を置いた。 「これ……返すね」 「ああ」  純の手元に返却された彼の家の合鍵は二度と莉子の元には戻らない。別れとは、そういうことだから。  ふたりはレストランを後にした。このドライブの果てが莉子と純の恋の終着駅。 「俺は莉子に救われた。莉子と出会えてよかったと思ってる」  車窓を流れていく街の灯り。BGMも流れない車内で純の言葉が突き刺さる。  無言の莉子の横で彼は運転を続けた。車の目指す方向は莉子の自宅に向かっていて、見覚えのある風景が自宅が近いことを莉子に教える。  目と鼻の先に莉子のマンションが見える脇道で車が停車した。  莉子はすぐさまシートベルトを外して運転席にいる彼に抱き着いた。温かな胸元には純の香水の香りが染みていて、深い森林を連想させる匂いを思い切り吸い込む。  大好きなこの香りも忘れないように。 「純さん」 「ん?」 「1日早いけどお誕生日おめでとう。生まれてきてくれて、ありがとう」 「……ありがとう。今日を莉子と過ごせて良かったよ」  ポンポンと頭を撫でられていると、これが最後の別れだとは思えなくて、次に会う約束をしてしまいそうになる。  明日は純の36歳の誕生日だ。当然、誕生日も仕事だよと笑った彼は、明日も実家に帰るつもりはないらしい。  誕生日プレゼントは何もあげられない。莉子を思い出すものなど、あげられるわけがない。  せめて……と、彼の首筋に吸い付いた。キスマークを上手くつけられない莉子は、吸い付いたそこを舐めるだけ。  それに社会人の純の首にキスマークはご法度だ。つけられない独占欲の証の代わりに彼女は自分の匂いを彼の身体に染み込ませた。  小さく息を吐いた純が莉子を抱き締める力を強くする。離れたくないと泣き叫んだふたつの心は、割れた硝子みたいに粉々だ。  名残惜しく触れていた身体を離して助手席の扉を開けた。夜になり一段と冷えた空気に身震いしても純の温かい胸元には帰れない。  最後に見た純の微笑みが寂しげに莉子を見送っていた。  互いにどうしても「さようなら」は言えなくて、莉子も微笑みしか返せなかった。  一度も振り返らずに自宅まで歩き続けた。  不思議と涙は出なかった。泣いてしまえばすべてが崩れて元に戻ってしまう。  上京する莉子を引き留める言葉が純から出ることはついぞなく、「離したくない」とは言われても「行くな」とは一度も言わなかった。  純の光になりたくてもがいた莉子は、ある時に悟った。今の莉子はまだ子供だから純の心に翳る日陰を受け止め切れていない。  莉子は自分のことで精一杯で、純の孤独を共に背負って生きられるほど大人ではなかった。  けれど莉子はあの熱帯夜を忘れない。  愛のための別離を選んだ男と女は、永遠を閉じ込めた真夏の夜空に沈んで溺れて、さようなら……。
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