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──もし私が東京に来て欲しいって言ったら来てくれる?
──……いや。東京には行かないよ。
真っ暗な闇の中、瞼が開いた。触れた目元は濡れていて、夢を見ながら莉子は泣いていたようだ。
またかと苦笑いして枕元の携帯電話を引き寄せる。明るいライトが眩しい携帯の液晶画面には午前2時の時間が表示されていた。
また、彼の夢を見た。
これで何度目?
何度、彼の夢を見て泣けば気が済むの? 別れたあの日は泣かなかったくせに。
夢の中の彼も哀しい表情で優しく笑う人だった。
東京には行かないよ──。夢の中で彼に言われた一言がズキズキと心に刺さる。
夢で言われただけの言葉にこんなにショックを受けるとは思わなかった。
夜明けまでまだ時間がある。眠らないといけないのに寝付けなくて、ベッドの中で身動ぎする莉子の耳に雨音が届いた。
真夜中に降り注ぐ雨音を聞いて彼に片想いをしていた梅雨の頃を思い出す。思い出さないようにしていても次々と思い出しては心を掻き乱す厄介な記憶達。
もうすぐ上京して初めての夏が来る。
彼は今、どこで何をしている?
彼の隣には今、誰がいる?
彼の面影を東京の街で見かけると心臓がうるさく高鳴った。
こんなところで会えるわけがないのに、彼によく似た人を見かけて、彼の香水の香りに似た香りを感じて、彼に似た声を聞いて泣きそうになった。
でもどれだけ似ていてもそれは彼ではなかった。
──そして今年もまた夏が巡る。
雨上がりの空に夏の匂いを感じて、きゅんとして切なくなった。
捨てられない夏がある。忘れられない夜がある。
彼と結ばれた夏は何年経っても息苦しくて、心がきゅっと痛くなる。彼と過ごしたあの暑い季節を莉子は今でも愛していた。
あの時、上京への道を選ばなければどうなっていたんだろうと考えた。
彼とあのまま一緒にいられたら自分達はどうなっていた?
頑なに結婚を選ばない彼に業を煮やして、莉子も由貴と同じく彼に別れを切り出していたのだろうか。それとも……。
今も莉子はその答えを出せないまま、何度目かの夏が巡り廻った。
◆◆◆◆
引き出物とはどうしてこんなにも重たいのだろう。ホテル名の刻印が入る上質な紙袋を片手に佐々木莉子は道端でうなだれた。
駅舎の影に入って彼女は一息つく。ちょうど空いていたベンチに腰を降ろして、バッグからスマートフォンを取り出した。
スマホをタップする莉子の指先を彩るネイルは、くすみピンクをベースに爪先にホワイトとオーロラのシェルを埋め込んだフレンチジェルネイル。シェルパーツで夏らしさを出しつつ、ベースカラーのくすみピンクで秋を先取りできるこの時期に人気のデザインだ。
「コメントはいい式だったね、だけでいいよね……」
スマホに表示した友人のインスタグラムには先ほど行われた披露宴の模様を写した写真がさっそく載せられている。今日は高校時代の友人の結婚式だった。
これで高校の仲良しメンバーでは莉子だけが唯一の未婚となってしまった。披露宴で同じテーブルに着席した仲良し組の話題はもっぱら、旦那の愚痴にノロケ、保育園の話題や2人目育児の話が大部分を占めていた。
昔は、男性アイドルのコンサートのたびに都会に遠征に出ていたアイドルオタクの友達や、彼女がいる男とのセカンドの恋に走っていた友達が、今は何食わぬ顔で主婦をして母親をしているのだ。彼女達の歴史を知る者としては感慨深い。
莉子は? と話を振られて、現在の莉子の事情を知る杏奈以外の全員が好奇心の眼差しでこっちを見た時は肝が冷えた。
まさか浮気発覚で1ヶ月前に彼氏と別れたばかりとは……おめでたい場ではさすがに言いづらい。助け舟を出して話題をそらしてくれた杏奈のおかげで醜態を曝さずに事なきを得た。
そういう杏奈は、披露宴会場のホテルまで旦那が迎えに来ていた。ついでに杏奈の旦那の車に乗せてもらい、一旦は莉子も杏奈夫妻の自宅に立ち寄った。
杏奈の自宅で杏奈の旦那も交えてしばしの休息と談笑の時間を楽しみ、莉子は杏奈の自宅を辞した。
杏奈からはこのまま夕食をうちで共にしようと誘われたが、「明日仕事だから早めに東京戻りたいんだ」と嘘をついて夕食は辞退した。明日は前々からのシフトで休み。今日の有給と合わせて2連休にしてある。
杏奈の夫も好感を持てる人物だ。友人夫妻との食事が嫌なわけではない。
しかし結婚式の祝福ムードに当てられた今は、これ以上の幸せオーラの吸収が独り身には堪える。杏奈の自宅で寛ぐひとときでさえ、杏奈と旦那のいちゃつきぶりを微笑ましいと思う一方で莉子の笑顔は引きつっていた。
莉子の地元の駅は最寄りの新幹線駅である豊橋駅に向かう快速列車が通る。19時台の快速に乗れば20時台の豊橋発東京行きの新幹線には充分に間に合う。終電までには東京に着けるだろう。
家に帰ったら一刻も早くベッドで眠りたい。
史上最速の梅雨明けで幕を開けた2022年の夏。今日も全国的に真夏日だった。
次の快速列車の発車時刻まで間がある莉子は、暇つぶしに駅前の大通りをふらふらと散策し始めた。
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