Episode6 泳げない魚たち

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 ハイヒールの靴も洒落た深紅のワンピースも、汗ばんだストッキングも、純のワイシャツとスラックスも革の靴と靴下も、くしゃくしゃに丸まって皆揃って床に寝転ぶ。  莉子の耳たぶにリップ音が鳴る。首筋、鎖骨、かすかに汗の匂いが香る脇の下にも純は舌を滑らせた。  胸元を覆うランジェリーの肩紐がずり落ちて、するするとほどけた先に現れる彼女の膨らみに純が沈む。  あの頃より成熟した莉子の裸体を純は唇で、舌で、指先で、手のひらで、感じて味わった。  日焼け知らずな白い柔肌で覆われた身体は大人の女の妖艶な色香を纏っている。引き締まったウエストからヒップラインにかけては見事な曲線美を描き、胸の膨らみも幾分増したように感じた。  可愛かったあの頃の莉子はいない。けれど歳を重ねた30代の莉子は純には眩しいくらいに綺麗だった。  浮気をされて別れたと聞いたが、こんなに魅力的な莉子がいながら他の女に目移りしたあげく莉子を傷付けるとは、馬鹿な男だ。  莉子はその男にどんな風に抱かれていた?  考えれば考えるほど心に生じる黒い嫉妬心を抑えきれない。  激情を理性で押さえつけようとしても、理性の隙間から零れ落ちた純の激情の欠片に、莉子は狂って酔わされる。  ショーツを脱がせて両脚を開かせれば、真っ赤な顔で瞳を潤ませた莉子がいて、彼女が(みだ)れる姿をもっと見たくなる。 「やっぱり今も恥ずかしがるんだな」 「だって純さん、電気も消さずに隅々まで見るじゃない。しかもけっこう……その……隅々まで舐めるし……夏だから絶対蒸れてるのにシャワーの前がいいって言うし……」  今夜も部屋の電気は消さないままで、互いの羞恥な姿を晒していた。もちろん見るだけでは終われない。 「シャワーしてなくて蒸れてるって言うなら俺だって汗臭いだろ?」 「純さんの汗の匂いはいいの」 「俺も同じ。莉子の匂いだから気にならない」 「純さんやっぱり超変態……あっ、ちょっと、待っ……ぁっ!」  莉子が恥ずかしがろうが、快楽に淫れた彼女の声を聴きたくて、莉子の甘さを飲み干したくて、純は莉子の蜜壺に舌を這わせる。割れ目を辿って舐め取ったこの魅惑の味は紛れもなく莉子の味。  指と舌の愛撫でどろどろに濡れた莉子の中で、ふたつの愛はひとつになった。  腰は揺れて、指を絡めて、身体はもがいて、吐息は喘いで、唇を重ねて。  そうして忘れられない熱帯夜に、ふたりはもう一度溺れた。         *  情欲の火照りが消えない裸体をシーツにくるんで、莉子は室内に視線を巡らせる。純と入室した直後は部屋の内装を気にする余裕もなかった。  こんな部屋だったか……と彼女は自分で選んだラブホテルの部屋を焦点の定まらない視界でぼんやり眺める。  フロントのパネルで部屋を選ぶ時も、こだわりなく空いている部屋を選択したに過ぎない。それくらい気が(はや)っていた。  ベッドの隣の壁は鏡張りになっている。この鏡はついさっきまで、身体を抱き合わせて絶頂を迎えた男女を映していたのだ。  流れに任せて最初の射精後から休憩を挟んでもう1回、事に及んでしまった。莉子は2回目のセックスの最中、純の上で腰を振る自分の姿をこの鏡で見ていた。  男の上で腰を振っていても20代の頃の腹部はぺたんとして平らだった。30代を迎えた今はどれだけ運動をして引き締めに励んでも、少しだけ下腹部についた余分な脂肪が乗ってしまう。  体型は一般的な30代女性の平均値よりは細いと自負している。ウエストのサイズも58センチから60センチの間を維持していた。  美容業界に携わる者としては見た目には気を抜けない。  髪はぱさついてボサボサ、下手なメイクとたるんだ身体のネイリストに爪を可愛くしてくださいと頼む客なんて、ほとんどいないだろう。この業界では技術者の見た目の印象と加えて話術も売り上げに繋がる。  腕が良ければそれでいいだけの世界ではないのが、美容業界だ。  1ヶ月前に別れた元彼の浮気相手は10歳下の大学生だった。莉子が知らない間にインスタグラムを介して知り合ったふたりは、ゴールデンウィークには沖縄に旅行へ行っていた。莉子には友達との旅行だと嘘までついて。  莉子は元彼のインスタグラムのフォロワー欄で浮気相手の女のアカウントを見つけてしまった。  ネイリストの職業柄、20代世代の流行は心得ている。浮気相手の女はよく言えば流行に敏感、悪く言えば流行に踊らされて個性がない。  渋谷や新宿を歩けば似た容姿の女に10人は出くわす、そんなどこにでもいる普遍的な女だった。  女のインスタグラムには沖縄旅行で撮られたと思われる写真が複数投稿されていた。その中には水着姿の写真もあったが、肉感を感じさせない平べったい腹が何よりも莉子の心をざわつかせた。  元彼はある時期を境に、行為の最中に下腹部に乗るようになった莉子の脂肪をからかうようになった。  その口振りから誰と比較しているのかと思っていたが、要するに比較対象はあの女子大学生だ。  体型のからかいが始まったのも元彼とレスになり始めたのも、4月付近。浮気相手との沖縄旅行がゴールデンウィーク。  なんとわかりやすい浮気の露呈だろう。  純の前で下着姿を晒した時、元彼にからかわれた下腹の贅肉を莉子は必死で隠そうとした。ほんのわずかの脂肪だとしても純が知る20歳の莉子のイメージのままで、彼を幻滅させたくなかった。  お腹がたるんだオバサンになったと思われたくなかったのだ。  でも純はそんなことを気にもしていないのか、20歳の頃よりも少しだけ肉感が増した莉子の腹部を愛しげに撫で、そこに熱い吐息とキスを置いてくれた。  傷付いて冷たく凍った心は耳元で囁かれる純の温かな愛によって溶かされて、涙になった。  2度目の絶頂を迎える間際に流した莉子の涙の理由を純は尋ねなかった。けれど目尻を濡らす涙を拭う、ささくれだった指先は優しかった。  年齢に応じて変化する体型を元彼に揶揄された傷、浮気をして裏切られた傷、友達の結婚が嬉しいのに素直に喜べないのは嫉妬や僻みではなく、大好きな遊び相手をどこぞの男に取られた寂しさ。それらすべてを純は包み込んでくれた。  きっと純は、莉子の身体が今よりもっと肉感が増してだらしなくなってしまっても抱いてくれる。目尻にシワができても、ほうれい線が目立ってきても、可愛いと褒めそやして愛を囁き、熱い口付けをしてくれる。  莉子が純に対してそうであるように、確証のない確信の愛がここには宿っている。
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