Episode6 泳げない魚たち

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 けだるげに上半身を起こした莉子は背中の素肌を鏡に映した。汗ばんだ背中に点々と散らばる赤い刻印は、腰の付近まで続いている。  莉子の隣で身動いだ気配はこの赤い刻印を刻みつけた張本人のもの。莉子と同様に上半身を起こした純が莉子の肩を抱き寄せる。 「どうした?」 「純さん、おしりの近くまでキスマークつけたでしょ……。背中が真っ赤」 「真っ赤なのは背中だけじゃないけどね」  穏やかな口振りで意地悪な眼差しを送る純の手が莉子の胸元に伸びた。鎖骨の下、乳房、腹部、太もも、背中……首筋を避けたほぼ全身に純は刻印を刻みつけた。まさに白肌を埋め尽くす赤い薔薇だ。 「キスマーク製造変態オジサン……」 「変態オジサンは莉子限定だよ」  軽めのキスを交わす間も純の手のひらは莉子の乳房を包み込んで離さない。そのままじゃれついたふたりの身体はゆっくりと傾き、またベッドの底に逆戻り。 「私と別れた後、誰かと付き合った?」 「付き合っていないよ。ずっと独り身。彼女はいなかった」 「本当に?」  シーツの擦れる音がして、莉子の胸に顔を埋めていた彼が視線を上げた。 「信じられない?」 「だって……私よりも若い子がお店に入ってきたら、純さんはフラフラと吸い寄せられて一目惚れしちゃいそう」 「俺はそんなに惚れっぽくないよ。それに若ければいいってものでもない。莉子に惚れたのも莉子の年齢が若いからではなかったんだよ。莉子だから好きになったんだ」  とろけるような甘い言葉を囁かれても、莉子はどうにも腑に落ちない。  惚れた弱みからの贔屓目はあっても、純は俗に言うイケオジの部類に入る男だ。哀愁漂う背中や年齢を重ねて血管の浮き出た腕や手の甲も、穏やかな物腰も、若さだけが取り柄の男に飽きた女には魅力的に感じる。  世間知らずな若い女だけではなく、世間を知って擦れた大人の女も、純に吸い寄せられてしまうだろう。かつての元カノの由貴のように、過去の元カノが接触してきてもおかしくはない。 「けど、バイトの女の子に迫られたり、街で高校生や大学生の子に〈オジサン、パパ活しよう〉って声をかけられたり、シングルマザーの色っぽいパートさんに誘惑されたり、純さんならありえそう。本当にパパ活のパパなんてやってないよね? さっきの純さん、全然衰えがなくてエッチが久しぶりな感じしなかったし……まさか……女子高生と……みだらな行為を……」  想像力豊かな莉子の物言いに純は大笑いしている。最後の「衰えがなくて……」の部分がよほどツボにハマったようで、莉子を満足させられて安心したと笑いながら言う始末。  満足どころか極上だったのだが、それが大問題だと純は気付いていない。先ほどの情事は12年前に彼と過ごした幾多の甘い夜を彷彿とさせた。  純の話が真実なら莉子と別れた以降の彼は女をひとりも抱いていない。 (それで久々のセックスがあんなに濃厚って……あんなに……。ああもうっ。純さんが上手いのはわかっていたけど、とことん骨抜きにされちゃってる)  数分前の出来事が脳裏に甦ってまた頬が火照る。純に愛された甘い時間の余韻が身体のそこかしこに残っている。  しかし、熱を持った頬を両手で覆う莉子の疑いの眼差しはまだ晴れない。 「莉子が何を想像してるか知らないけど、俺はそんなにモテないから。誰もこんな枯れたオジサンをわざわざ選ばない」 「わからないよ? 枯れたオジサンをわざわざ選ぶ女がここにいるもん」  自分の頬に当てていた両手を純の頬に添える。莉子の真摯な視線を受け止めた純は眉を下げて苦笑した。 「……莉子が物好きなのかな」 「そうかもしれないね。私、もうすぐ32歳だよ。年齢だけはもう立派な大人なの」 「9月7日が誕生日だったね」  誕生日を覚えていてくれた事実がとても嬉しい。莉子の心を暖かく照らすこの気持ちは12年前と少しも変わらなかった。 「中身は全然、昔のままで大人にはなれていないよ。でも〈大人〉にならないといけない時が沢山あって、精一杯、大人のフリもしてきた。東京に行って悔しかったこといっぱいあって、聞いて欲しい話もいっぱいあるの」 「なんでも聞くよ。会えなかった間の莉子の11年分の話、俺に教えて」  髪を撫でる大きな手も、耳に心地よく残る低くて穏やかなトーンの声も、目尻にシワの増えた奥二重の目元も、乾燥してカサついた唇も、全部、愛しくて、全部、独り占めしたい。 「だからね、純さんの抱えている悲しいことや辛いことも、寂しいことも、一緒に持てるんだよ。ハタチの私では無理だったことが今の私なら出来る気がするの」 「……莉子は強いな」 「強がってるだけだよ。本当は内気で気弱な臆病者だもん。だけど純さんがいてくれたら、きっと強くいられるの。お願い、私に純さんの全部をちょうだい?」  彼の全部が欲しいと思った。心も身体も、彼が負った孤独もそこから生まれた悲しみも諦めも。  そして守りたいと願った。彼を(むしば)む孤独から今度こそ救い出したい。 「本当にいい? こんな枯れたオジサン拾っても後悔するだけかもよ?」 「相手があなたなら後悔してもいい。私は枯れたオジサンじゃなくて純さんがいいの。オジサンが好きなんじゃなくて、純さんが好きなのって昔から言ってるじゃん!」 「……馬鹿だなぁ莉子は」  彼に慈愛の溜息をつかれるのは何度目だろう。それだけ莉子は純の前ではワガママ放題でいつでも彼を困らせている。 「はぁ……。莉子のお願いに俺はとことん弱いな。告白は莉子に言われる前にしたのに、これだと男の面目が……」 「ねぇねぇ、オジサン、何ぶつぶつ言ってるんですかー?」 「オジサンと言うなら、俺にも少しは年上の男らしくさせろってこと」  莉子が腕を引かれて飛び込んだ先は純の温かな胸元。彼は抱き締める莉子の左手を手に取り、薬指にそっと、触れるだけの口付けを落とした。
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