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カフェで三十分ほど待っていると、慌てた様子で優が店に駆け込んできた。奥の席に居た累は、そんな優に手を挙げて合図する。優はそれを見つけバツの悪そうな顔でこちらに近づいた。
「すまない。大分待たせてしまって」
「これ奢りだろ? だったらいいよ」
テーブルを挟んで向かい側に座った優の目の前に、コーヒーカップを持ち上げる。優はそれを見て、もちろん、と頷いた。
「で、相談って?」
累が聞くと、優は少し視線を泳がせてから、実は、と話し始めた。
「……明が、積極的過ぎて、な……」
「……どういうこと?」
累が聞くと、そこに優が注文したコーヒーが運ばれてくる。店員を見送った後、優はまた話し始めた。
「……子どもが早く欲しい、と……」
言いにくそうに小さな声でそう告げた優に、累は思わず笑ってしまう。なんだただの惚気かと思っていると、優はひどく真面目な顔をした。
「笑いごとじゃないんだ、累くん。明はまだ十八だ。そちらの常識ではもう大人なのかもしれないが、俺の中ではまだまだ守りたい存在だ。そんな明に、子どもを産むなんて負担を掛けていいものか、とか、そもそも体の仕組みが変わるってどういうことなのか、妊娠でどれだけ明の体に苦痛を与えるのか……そんなことを考えてしまったら、どうしても明の望む通りにはしてあげられなくて」
優はそう言うと、小さくため息を吐いてから目の前のカップを持ち上げた。そんな優の話を黙って聞いていた累は、なんだか嬉しくなって微笑む。
「ちゃんと明のこと考えてくれてるんだ、優サン」
「そりゃ、自分以上に大事な存在だからな」
自分以上に大事――その言葉を貰えている明が少し羨ましかった。累だって、こちらの社会に来ているのは番を見つけるためだ。出会いの多いホストという仕事をしているのに未だにそんなことを言ってくれる人には出会えていない。
「……明は幸せだな」
「幸せにしてやりたいと思ってるよ。けど、今回ばかりは……」
「まあ、優サンの心配も分からないでもないよ。こっちには専門の病院もないから、ほとんどの人は地元帰って産んで子育てするし。ほら、子どもは、小さいうちは耳も隠せないから」
翠も完全には出来てないだろ? と櫂の娘、累にとっては姪の名前を出す。優も翠には会っているのだ。そう言うと、優が、なるほど、と頷く。
「明もそうなったら実家戻してやればいいと思うけど……明がそれをよしとするかは分からないな」
優さんの傍に居る、とワガママを言う明はすぐに想像できる。優も同じだったのだろう。苦い顔で頷いた。
「とにかく、この先は二人の事なんだから、ちゃんと二人で話し合った方がいいと思うよ。どんな結論出しても、オレは協力するから」
可愛い弟のためだと思えば、協力は惜しまない。それは累の本心だった。
「ありがとう……頼りにしてるよ」
優がそう言って強く頷く。
こんなにも大事にされている明にちょっと嫉妬も感じながら、それでも累は笑顔で頷いた。
「本当に送らなくていい?」
カフェを出た累に優が聞く。話を聞いてくれたお礼にとケーキまで買ってもらってしまったのに、優は更に家まで送ると言った。さすがに話を聞いただけでそこまではしてもらえない。
「いいよ、駅すぐそこだし。優サンも仕事戻んなきゃだろ?」
こんなところで時間を無駄に出来るような立場ではないはずだ。その証拠にさっき電源を入れたスマホはずっと震えっぱなしだった。
「ああ……じゃあ、ここで。明日も明と待ってるから」
そう言うと優は累に笑顔を残してから歩き出した。すぐにスマホを操作し電話を架けている。駐車場へと向かった優を見送ってから、累も駅に向かうべく歩き出した、その時だった。
「ルイト?」
そんな声が届き、累が顔を上げる。目の前には宙也が居た。キャストたちと飲んで解散したのだろう。宙也は一人だった。
「ヒロさん……」
プライベートでは一番会いたくない人に会ってしまい、累は目を伏せた。店からは大分離れた住宅街で、まさかこの人と会うとは思っていなかった。
「ルイトもこの辺に住んでる?」
おれすぐそこのマンションなんだよね、と宙也が指をさす。そこは優と明が暮らすマンションでもあった。
「いえ……弟がこの辺に住んでて……」
「へえ、ルイト弟いるんだ。じゃあオーナーと三兄弟か。弟も可愛いんだろうな」
そう言って宙也が近づく。酒と香水の香りが混ざったいつもの宙也の香りだ。すごく男らしくて強い雄のイメージがして、累はその香りに惹かれてしまう。だからこの匂いは嫌いだった。
「ヒロさん、酒くさいです」
「そりゃ、昨日の夜から飲んでるし。てかさ、さっきの男、誰?」
絶対弟じゃないでしょ、と宙也が累の肩を抱く。累はその腕を引き剥がしながら、誰でもいいじゃないですか、と答えた。その答えが不満だったのだろう、宙也の表情が不機嫌に変わる。
「よくなーい。アフターで男に会うとか、何? おれの誘い断ってまで会いたい男?」
「アフターじゃないです。でも、いい男だと思いませんか? オレたちと違って、戦闘服としてスーツ着て仕事してんです」
自慢の義弟なんです、と言おうと思っていた。けれど言えなかったのは宙也の唇が累のそれを塞いだからだ。一度は離した腕で再び累の肩を抱き寄せ、そのまま唇を合わせた宙也は累の口の中に舌を入れ、暴れまわってからゆっくりと離れていった。驚いて目を開けたまま固まっていた累に、宙也が小さく笑む。
「キスの時は目を閉じるもんだよ、プリンセス。その方がずっとおれを感じられるからね」
宙也はそう言うと、累の唇を指先で拭ってから腕を解いた。
「ヒ、ロ、さん……何……」
「何って、キス?」
可愛らしく首を傾げる宙也に、累は思い切り鋭い視線を向け、口を開いた。
「ふざっけんな! もう二度とオレに近づくな!」
累はそう叫ぶと、きびすを返して歩き出した。
信じられない。普通男相手にキスなんかするだろうか。しかも天下のナンバーワンホスト様が、だ。するとしたら、理由なんてひとつしかない。
「……オレのこと、バカにしやがって……」
累はイライラしながら小さく呟いた。
からかわれた。それしかない。万年二位の累をからかっているのだ、宙也は。からかっていい存在だと思われているのだ。それが悔しかった。
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