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「ヒロ! いい加減こっちに来てよ!」
隣の席からそんな声が聞こえ、累はそちらに視線を向けた。隣の席には宙也と客の女性が座っていて、その二人の前に女性が一人立っている。
「やだー、ヒロ、この子怖い」
宙也の隣にいる女性が宙也に縋る様に寄る。宙也は彼女の肩を抱いて、大丈夫、と微笑んだ。
「どうしたの? そんな怖い顔したプリンセス、俺は知らないよ?」
飄々としたまま宙也が言う。立ち尽くした女性が今にも泣きそうな顔で、口を開いた。
「せっかく来て、指名してるのに……こんな、見せつけるみたいなの……」
女性の言葉が分からなくてキラトに視線を向けると、キラトは累の隣に移動し、耳打ちするように話した。
「彼女、ずっとヒロさんが見える位置に座らされてるんです。でも、ヒロさんは声すら掛けなくて……もうすぐセットの二時間になるから、焦ったんだと……」
キラトの言葉に、なるほど、と累が小さく頷く。その頃には周りも何か騒ぎかとざわめき始めていた。
「……キラト、彼女に声掛けて。オレが最後の時間付くから」
累がそう言って立ち上がる。すると、宙也がこちらを見やった。鋭い視線の中に、邪魔をするな、というメッセージを受け取る。けれど、これ以上は彼女が可哀そうだ。いくらセット料金で来ていても客は客だ。ここに来た以上、夢を見せて帰したい。
宙也の視線を無視して彼女に近づいた、その時だった。宙也が突然、シャンパン、と呟いた。
「……シャンパン飲みたいな。どちらのプリンセスが飲ませてくれる?」
宙也がそう言いながら微笑んで脚を組む。立ち尽くしていた女性が、私、と叫んだ。
「私が、飲ませてあげる。ヒロの好きなのでいいよ」
ぐっと唇を噛み締めた彼女を見上げ、にっこりと微笑んだ宙也は、組んでいた脚を戻し、そのまま立ち上がった。
「じゃあ、君は……キラト、テッパンネタでも披露してあげて。俺たちは向こうの席で飲もうか、プリンセス」
宙也はそう言って立ち尽くしていた女性の腰に手を添え、歩き出した。
「ヒロ……フリーで入れなくなったからもう嫌われたかと思った……」
「まさか。俺がプリンセスって呼ぶ子のことはみんな大好きだよ。でも、今は、君だけが俺のプリンセスだ」
そう言って二人は向かいの席に落ち着いた。それをずっと見ていた累はため息を吐いて座り直す。
「ルイトさん、僕、隣に行きますので……」
キラトが少し眉を下げ、そう言う。こんな状態の客を任せられてもきっとキラトには何もできないだろう。それでもナンバーワンの指名であれば、行かなくてはいけない。
「うん。ここは大丈夫だから……あ、シュンにサポート入って貰えよ。多分、二十分くらいだとは思うけど」
今仲良くシャンパンで乾杯している客が時間を延長するとは思えない。出来るならセットで入ってないだろうし、シャンパンも入れたのだ。そのまま帰るだろう。
累の言葉に頷いたキラトが頷く。
「なんか、すごいの見ちゃった」
ずっと黙って状況を見守ってくれていたマリがぽつりと呟く。
「そっか、マリちゃんこの時間ばっかりだからあんまり見ないか……日の出の時間のヒロは、いつもあんなだよ。ああやって客同士で競わせるの」
午前五時から始まる、いわゆる日の出営業は、自分たちと同じ業界の女の子たちが遊びに来ることが多い。宙也の客はこの業種の子が多くて、彼女たちもそれなりに稼いでいるから、もっとひどい有様になることもあるのだ。
累はマリのような一般職の客が多いので、あまり日の出には出ないのだが、それでもよく目にするのだから、これが宙也の営業方法で、日常なのだろう。だから、あんなにも落ち着き払って客から金を引き出す。
「ひゃー、すごいね。さすがナンバーワン」
「でも、オレはあのやり方大嫌いだ」
客の肩を抱き、シャンパングラスを傾ける宙也に視線を向けると、何故かその目が合う。累は思い切り眇めた目を向けてからその視線を逸らした。
「でも、ルイトだって一番獲りたいでしょ? わたし、今度フリーで入ってお酒いっぱい頼もうか?」
「いいよ、無理しなくて。その金でキレイになって、自慢の客になってまた遊びに来てくれよ」
「ルイト……ありがと」
絶対来週も来るからね、とマリに言われ、累は、よろしくな、と微笑んだ。
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