水影を映す

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水影を映す

何故だろうか。 俺は何時だか、小説が書けなくなっていた。 景色が浮かんでも、それに合う言葉が見つからない。 どこに行っても、その言葉はないのだ。 世界を言葉として見れなくなってしまったのか。 それでは何もかも拾えない。 言葉にできない物を、言葉にする。 結局その景色に辿り着けないと識っていても その景色を創りたいと願って小説を書く。 或る意味、それは影をなぞる行為にすぎない。 思考、という壁画に投影された水影こそ 俺の書こうとしている物なのだ。 とは言っても、俺達は水面を眺めている。 否、泳いでいるのかもしれない。 水影を眺めるのは本来読者である君達だ。 だけれど、俺は小説を自分の為に描く。 君達の為になんか、書いてやるものか。 その河を濁らせているのは君達なのだから。 その嘆きを謳うのが、創作家の役割なのだ。 だけれど、 そんな自分は何年も前に死んでしまった。 いいや、殺されたのだ。 殺人犯は言った。 ___私と2人で生きていきましょう。 俺は願った。 ___ああ、こうして2人でずっと生きていたい。 こうして2人で世界に在るのなら 俺はこの世界の汚点でさえ美しく見えた。 同時に、死んでしまった自分を取り戻そうと足掻いた。 だけれど、もう戻らなかった。 小説が埋めていた心の隙間は たった一度の少女の笑顔で殺害されたのだ。 河辺に映る笑みに呪われたのだ。 そうして、その心は上書きされたんだ。 そしていつしか、小説は書けなくなっていた。 あぁ、この事を君に伝えられたのなら。 小説の世界の中だけでも幸せにしてあげたいと、 もう一度その、声で俺の名を呼んでくれたなら 君を忘れてしまう前に 君の姿を描けなくなる前に 伝えられたのなら どれだけ良かっただろうか。
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