先生と猫

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雨はあまり好きではない。6月になってから、雨ばかり続いている。 鬱々とした気持ちで主人のいない部屋をあてもなくウロウロする。いつもは机に向かって書き物をしている主人の姿が見当たらないだけでこんなにも心細くなるのかと思った。 バタバタと窓ガラスに雨粒が激しく叩きつけられる音に思わず体を丸めた。 これは良くない。非常に良くない。息が苦しくなって、身体が冷たくなってくるのを感じる。ここは部屋の中で水なんてどこにもないのに。誰でもいいから側にいて欲しかった。 一緒に川に入ったはずの女は、もう側にいない。離れないように硬く紐で結んだと言うのに、目覚めた時には紐の先には誰もいなかったことに酷く落胆したことを覚えている。 そうして今、何の因果か、「猫」などというものに生まれかわっているわけだからしようがない。 もういよいよ体が動かないというところで、 「ハル」 と呼ばれた声にふ、と体が軽くなる。 呼ばれた方へ顔を向けると、心待ちにしていた主人の姿が目に入る。ぎこちない歩き方で側によると大きな手が頭を撫でた。 先程まであんなに冷たかったのに、その手に触れられると身体中に一気に血が駆け巡る。 この人に撫でてもらうと全てが報われるような気がした。もっと撫でて欲しくて手ひらに頭をグリグリと押しつけると軽く頭を叩かれる。 もう撫でるのは終わりの合図だ。 不満気な声を漏らせば、主人は片眉を上げて「もう終わりだよ」と言う。 もっといっぱい甘やかして欲しいのに。 この人は、全然自分のことを受け入れてくれない。それがずっと不満だった。理解していないわけではないのだ。よーく理解している。 だからタチが悪い。理解はあるが受け入れてはくれないのだ。だったら最初から受け入れるような素振りをしないで欲しい。期待していた分、裏切られたような気持ちが大きくなる。 ふと、主人が手にしている皿の上に真っ赤な実がたくさんのっていることに気がつく。 「なんだ、コレが気になるのか?」 こちらがじっと皿を見ていることに気がついたのか主人が笑いながら赤い実を一つ手に取った。種を取り出したそれを掌にのせると鼻先へ差し出される。 「ほら」 どうしたら良いのか困って、主人の顔を見ていると不思議そうな顔で「食べないのか?」と聞かれる。 俺が食べてもいいのか、と恐る恐る実をかじると甘酸っぱい懐かしい味がした。 好きな味だ、そう思うと同時にまた頭を撫でられた。 「あいつは最後まで俺の話を聞いてくれなかったな」 独り言のように主人はぽつりとそう言った。 それは理解者のような顔をして、いつだって一番欲しいものはくれなかったからだ。 「俺はお前が死んだと聞いてホッとしたよ。やっと死ねたんだな」 そうじゃない。あなたから欲しいのはそれじゃない。 皿の上の赤い実を今度は主人が口にいれる。ふいと主人の視線がこちらに向く。刹那、驚いたように目を瞬かせたかと思うと静かに笑った。 「津軽は良い作品だったよ、太宰」 先生、俺、貴方に愛して欲しかった。 父親のように無償の愛が欲しかった。どうしたって貴方は受け入れてはくれなかったけれど。だけど、先生がそう言ってくれるなら。俺、もう良いかな。 大きな手が頭をそっと撫でるのを感じて静かに目を閉じた。
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