交歓

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交歓

 ――……なにが川の神だ。あわよくば捕らえてやろうというのが丸見えな贄籠を編んでおいて。  あてがわれた部屋の、衝立の影に座ると荷袋の中身が口を聞いた。やはり聞き苦しい音だが、男は妙なる歌でも聞くように目を細めて荷袋を撫でる。 「そりゃあ神と奉るのは畏れているから、そして畏れているからこそ屠りたい、というやつじゃないか。それより、川の主がなんと言ったのか、もっと詳しく聞かせろ」  束の間、沈黙があった。やがて渋々というように語り出す。  ――……吾の喉笛と引き換えに、生贄を寄越せと。 「へえ? 生贄は、儀式を行い、生きたまま捧げないと意味がないはずだよな。まさかそこらのヒトを川や滝へ突き落として、さあ生贄ですといって成立するものでもない……だから、祭りに乗じて?」  ――……この村の差し出す生贄に満足していない……というよりも、問題があるといっていた。代わりに望みどおりのものを差し出せば返すという約束で……。  声はいっそう枯れて弱々しくなっていった。撫でていた手をとめて、男は荷袋の中を覗き込む。 「……これは」  生首は、今はとうていそれとは呼べない、ほとんどしわくちゃの干し桃に近い有様に戻っていた。 「どういうことだ。早すぎる」  男は呻いて、薄暗い部屋に灯火を灯し仔細に調べた。すぐに、耳の下に黒い痣を見つける。 「川に潜ったときか――」  ――……良い。放っておいても死ぬわけではない。 「俺が癪だ。おまえの精気を勝手に吸い取られるなんて」  ――……どうせあと数日で始末をつける。本体が満足すれば、こんなものも……。 「俺が、イヤだと言っている」 ――……好きにしろ。  聞くが早いか、耳の下へ顔を埋め、肉食の猛獣が肉をこそげとるように痣を舐めた。灯火の蝋燭がチリチリと鳴り、ふすま越しに音と影だけ伺う者があれば、妖が行灯の油を舐めているとでも思ったかもしれない。  やがて離した口元に、びちゃびちゃと跳ねて蠢くものがある。男が壁へむけてプッと吐き出すと、水蛇に似たものが叩きつけられ、床に落ちる前に短刀が突き刺さった。  柄に呪い模様を刻んだそれは、たちまち妖を燃やす。かすかに水苔のようなにおいがたちのぼり、燃え殻も残さず消えた。 「川の主と交渉したときか。いつも嫌がるのに、急に精気をよこせなんて欲しがるからおかしいと思ったんだ」  ――……思ったか? 「嬉しかったから、その場ではまったく思わなかった」  短刀の穢れを拭いながら、男は口を尖らせ眉をはねあげる。馬鹿正直な告白に、石を擦り合わせる音がするのは、首が珍しく笑ったのかもしれない。  それから、男と干し首は、同時に気配を感じて窓外へ意識を移した。明り取りの、古臭い油紙を張った窓をからりと開ける。  水の匂いと震える空気に、男が眉をひそめた。 「古代語か? 俺でも分からん」  ――……種族に特有の方言混じりだ。  しわの一筋にしか見えないまぶたを閉じて、しばらく遠い管楽の響きに似た震えに、耳をすましているようだ。  ――……吾の喉笛を取り返すのに、精気を蓄え、川から引きずりだして焼いてやるつもりだった。 「だったとは、じゃあ気が変わったのか? 今のは、歌だな。川の主なんだろう。何を語っていた?」  質問を重ねてから、男は剣呑そうに目を眇める。 「待て、あの古代種は声をもたないはず……ってことは、おまえの喉笛をとりこんだのか?」  着物の襟首から殺気がたちのぼる。宥めようとするでもなく、妙に歯切れ悪く首がこたえた。  ――……取り戻せばいいだけのことだ、考えはある。 「しかし村の生贄では問題があるんだろう?」  ――……だから、儀式に便乗して、あいつの言う問題とやらはこちらで調整して利用する……物理法則に従わない方法はとれないから面倒だが……。  男は、殺気立ったのと同じくらい素早く、相好を崩してふふと笑った。 「何度聞いても、神族の末裔が口にする物理法則なんてのは、面妖な響きだなあ」  さて、と首を抱えなおす。目を細め舌なめずりでもしそうで、これから甘い果実を堪能しようという顔そのものだ。  ――……頼んでいないぞ。 「頼まれてはいない。が、俺がそうしたい。ダメか?」  ――……ふん。  見た目だけなら、干した桃にしては大きすぎ、しかも黒髪はたっぷりと残った不気味な首は、思案しているのか、なかなかこたえなかった。  辛抱強く待つ間、膝から床へ、ざらりと流れる黒髪をすくって男は頬ずりする。不気味な干果の、表情は伺えない。  ――……そうだな、頼む。  石臼をひくような声だが、男は天上の調べを聞いたように、ほとんど狂喜した。  丹念に探り、舌でここと見当をつけたあたりを舐めほぐす。すぐにやわらかくほとびた一筋が、淡い色の唇らしい様子をおびて、男の唇に覆い隠された。  水音はかすかで、男の頬や首の筋がうごめき、狭い口腔内で行われていることは伺えない。長いような短いような時間のあと、男の手の中で、それはまた間違えようのない生首に変化していった。  灰白かった果肉は内側から輝くような薄桃色にはりつめて、皺の二筋だったあたりは濃いまつげをふせた目蓋に変わっている。黒髪が、夜の川の流れのように緩やかにうねり始めた。  効果を確かめるように、少しばかり男が唇をはなす。ゴロゴロと、猫が喉を鳴らすような音がして、生首の薄い唇から先の分かれた舌がひらめいた。ほんの一瞬、虚を突かれてその舌先を見つめる。  おねだりのしるしを、男は読み間違えなかったし、茶化すことも、うっかり名前を呼ぶこともしなかった。  そのかわり、懇願する顔になってねだる。 「やっぱり、俺の夢寐に……続きから……だめか?」  ――……駄目だ。  うう、と項垂れる男にむかって、今度ははっきりと、炎の形の舌がのびてつむじを打った。  ――……何度言えば分かる。始めからだ。 「……そうだったなっ」  大きく目を見開き、のびてくる舌を甘い飴のようにつるりと口へ迎い入れた。幸福そうに目を閉じると、生首を抱いたままパタリと横倒しになる。  男はたちまち深い寝息を立て、生首は、息づくように艶めかしく、交尾を誘う夏虫に似てほんのりと輝きはじめた。
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