婚家

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婚家

 蕎麦屋から、外へ忍び出た姿がある。  逃げ隠れする必要などないのだが、とぶつぶつ呟いているのはムロカだ。 (ハヤを、ちょっと連れてきてジウに顔を見せてやれば済む話なのに。酒だってやたら高かったが、それで済むと思ったから買ったし、あの不気味な首を連れた男にくれてやったんだ……)  それで姉の気が済むなら、きちんと祭りのあとで贄籠から出てくる気力をもってくれるならと、思っていた。しかし想像以上に、姉は清めの儀式で消耗していたのだ。  夢で会わせるなどとまだるっこしい。本人を会わせればいいのだ。今夜のうちに夢を見させるのは難しいなら、明日、姉が眠る前にハヤと会わせてしまえば今回の願いはなかったことになる。金も払わずに済むだろう。 (準備が必要だと? どうせイカサマだ。手品師か魔術師の類だ)  不意にゾクリとしてムロカは蕎麦屋の二階を見上げた。  町に手品師の興行を見に行ったことは何度かある。噂では、手品師のうちには本当に種も仕掛けもない、魔術師も紛れているとかで……。  ムロカは、蕎麦が来る前に話したとき、男がこちらを見て笑いをこらえていたことを思い出した。不愉快そうに舌打ちしてから、駆けていく。  あの男がいなければ、遅い朝食になった肉蕎麦とは別に、昼飯用の弁当を女亭主に頼めただろうにと、ひたすら男が恨めしい。  ハヤの嫁ぎ先は、町よりも近く、しかも川からは遠ざかる位置にある。だから今回は滝のそばを降りる道を選ばずに済んだ。足元も舗装されているから道は捗る。祭りが始まるのは深夜だから、それまでにハヤを連れて帰るのは問題なく間に合うはずだ。  道々ムロカの脳裏には、相変わらず、これから自分が村で浴びる称賛の嵐が、すでに起きたことを思い出すかのように繰り返し再生されていた。さらに、自分の元に嫁いでこなかったハヤが涙ぐみながら「私が間違ってたわ!」とすがってくる様子も、今では最も盛り上がるシーンとして加わっている。  ふと、記憶のうちに住むハヤの美しい横顔に、違和感を覚えて足を止めた。  ハヤはいつも横顔だった。その視線の先を気にしたことはなかった。ムロカと正面から相対するのは、女らしい恥じらいから、避けていたのだろう。  ハヤの傍には、いつもムロカの姉がいた。  姉は、弟が特定の女と親しくなることに嫉妬していたに違いない。ムロカを遠ざけようとするかのように、まるでハヤと二人しか存在しないように、完結した世界で囁きあったり、膝をつきあわせて細々とした手仕事をしたり。何も知らない他人などはそれを、姉妹のように仲睦まじい姿だと寝ぼけたことを言っていたものだ。  姉には弟の面倒を見るという重要な責務がある。結婚話などあっても、いや、あるはずがなかった。一方ハヤには、年頃の娘相応の話があったとは聞いている。それをすべて袖にしてきたのは、ムロカからの求婚を待っていたからこそだ。その証拠に、縁談を断った後でハヤは、いつも家にやって来て姉に報告していた。ムロカに聞かせるためだ。ことさら小声だったのは、大事な話だからしっかり聞き耳をたてるようにとの合図だった。不安にさせてごめんなさいね……もちろん今度も断ったに決まってるわ……。 「不安になど思ってない、よそとの縁談に食いつくバカな女じゃないとはちゃんと分かってたさ……」  記憶のハヤに語り掛けるが、いつも、いつでもハヤはジウと手を取り合い、おかしなこともないのに、互いを見つめ、微笑みあっていた……。 「……いや、まさかそんな」  ムロカの胸に、ザワザワと騒ぎ出したものがある。それは耳の後ろへと這い登ってきて、囁いた。 「そうか……姉さんだ」  姉が、ハヤの背中をほんの一押しすればよかったのだ。それほど親しい仲なら、一言、弟と夫婦になって、妹になってとでも言えば、ハヤはためらうこともなかっただろうに。 「むしろ、姉さんが邪魔をして……だからハヤは僕のものになれなかったんだ……」  弟可愛さで、いくら仲の良いハヤでも夫婦にするのは惜しいとでも考えたのだろう。ハヤがいくらムロカへ、妻にしてくれと勇気を振り絞って頼み込もうとしても、姉が適当なことを言って諦めさせていたに違いない。  ならば、姉が憔悴している今、むしろ都合が良いのではないか。  長老衆とは、この生贄で最後にするという約束だ。結果がどうであるかは条件になっていない。条件はただひとつ、生贄をムロカの姉にすることだった。  もちろん生贄の儀式などは時代遅れの、なんの科学的根拠もないものだとムロカが何度も演説をしたので、感銘を受けた村の連中が感謝するのは決定事項だ。そのとき隣にいるのは、姉でなくとも問題ない。そう、ハヤでいいのだ。  先行きの明るさを確信したムロカは、ハヤの嫁ぎ先、なかなか近代的な家のドアを叩く。中からは驚いた顔のハヤが現れ、やっと迎えに来た花婿へ甘えた恨み言を言いながらも可愛らしく胸に飛び込んでくるだろう。 「どちら様?」  しかし、ドアは細く開いただけで、中からは初老の女が機嫌の悪そうな顔をのぞかせた。  ハヤは、いなかった。  村からわざわざ迎えに来たこと、生贄になった姉が会いたがっていることを話すと、ドアはいったん閉じたあと、家の中がバタバタと騒がしくなる。やがてさっきの女と、その息子らしい壮年の男が出てきた。  ムロカを中に招きいれもせずに、質問攻めにしながら言うことには、こうだ。  ハヤは昨日、願いの実の祠へお礼参りに行き、それから帰っていないのだという。  生贄にならずに済んだのは願いの実に願をかけたからなので、必ずお礼に行かなくてはバチが当たるといって聞かないので、渋々外出を許したところ夜になっても帰らない。祠まではそう遠くないから探しに行ったが、願いの実は盗まれていた。まさか嫁がと怪しんだりもしたが、夜に怪しい男たちを見た者がいて、盗賊団の仕業だろうということになっている。 「それならさっさと帰ってくればよさそうなもんだけど、まさか、何が何でも取り戻してお礼参りをと思い込んじゃってるなんてことは、ないだろうし。あれよあれよと行きがかり上、嫁にもらった娘だけど、丈夫でしっかりした子だと思ってたのに……」  ハヤには姑になる女がキセルをふかしながら首をふった。横で男がとりなすように言った。 「まだ一晩だし、小娘でもないしね。大事にはせず、きっとすぐにひょっこり帰ってくるだろうと待ってるんですよ。……きみは、村ではハヤとは親しかったの?」  尋ねた男が、どうやらハヤの夫であるらしい。恰幅のいい、商家の若旦那といった風情だ。 「お姉さんが生贄になったのは気の毒だけど、会いたがっているということは、よほど親しかったんだね。そのこと、ハヤは、知ってるの?」  知らされていないはずだと答えると、ハヤの夫は弱ったように腕組みする。 「もし知ったら、ハヤは胸を痛めるだろうな……でも、会いたがっていると知らないまま、ええと、生贄のお祭りがあるんだよね? いつ? 明朝? 今夜? それは……知らないままで終わるのも気の毒だ……早く帰って来さえすれば間に合うだろうが……」  そういうことならひとを使って町中を探させるから、見つかったらすぐに、一度村へ帰らせると男は約束した。自分もこれからまた探しに行くといって、家の中へ引っ込む。  入れ違いに若い女が出てきて、ムロカへ控えめに微笑みかけながらハヤの姑のそばに立ってヒソヒソ囁いた。 「やっぱりお兄ちゃんのお嫁さん、川の神様のおこぼれを待ってたほうがよかったんじゃない?」  ハヤの姑はため息をついた。 「だって、必ず流れてくると決まったもんじゃあないもの」  ちらりと戸口を振り返ったのは、息子が聞いていないか確かめたものらしい。急に口元をゆるめると、皺の多い首を突き出し、ムロカの袖を引かんばかりの勢いでまくしたてた。 「ねえ、あなたのとこじゃ、なにか良くないことがあると生贄を流すんでしょう? それで下流の町じゃあ、生き延びて流れ着いた娘さんは運が良くて生命力が強いってことで、嫁にもらいたがる家が結構いるのも、当然知ってるわよね。近々祭りがあるって聞いてたけど、うちは川から離れちゃいるけど、縁あってね、たまたま生贄から免れたっていう娘さんをもらったってわけなのよ。やっぱりまた生贄になれってなったらたまらないからって、年の頃がちょうどいいうちの息子に話があってね……」  とにかく話したいだけなのだろう、ムロカにとってはこれといって意味の無い情報を聞き流し、目は、隣でクスクス笑っている妹の方に釘付けになっていた。  おとなしそうで、とても可愛らしい。上目遣いでこちらをちらちらと見ている様子は、ハヤよりもずっと従順そうに見えた。 「……母さん、またそんな話をして」  身支度を整えた男が出てきて、母親のおしゃべりを遮った。 「さあ、お客さんが困ってるじゃないか。それじゃあ、きみも戻ってお姉さんのそばにいてあげるか……それとも、一緒にハヤを探してくれるかい?」  まだ話したりなそうな顔をした母親を家の中へと押し込みながら、男はムロカに訊ねる。 「もちろん、見つけたら、村へ送っていくよ。そうだ、君のお姉さんの名前を伝えるから教えてくれないか」 「俺はムロカ……」 「ああ、いや――君のお姉さんは?」 「姉なら、ええと、ジウ、です」  妹の方が、母親のあとについて中へ引っ込もうとする。ムロカは手を伸ばした。着物の袖をつかむ。こちらを見たとき、笑みを含んだ目が、そうしてほしいと訴えていたのだ。 「いえ、ハヤがいないのであれば、こちらの……妹さん?を、お連れします……今からなら、間に合うし。ここにいないんじゃあ、ハヤは間に合わないし、ね」  妹の方へ、ニッコリと微笑みかける。妙案だった。  この娘なら、ムロカより背も低いし、喝采を浴びるときに見栄えがするだろう。  ほんの少し、間があった。  次の瞬間、ムロカは歓喜のあまり飛びついてくる娘を抱きとめた、つもりだった。  耳にキリを射し込むような悲鳴。手は払いのけられ、強く胸を押され、探しに行くと言って出てきたはずの男がなにかわめきながら妹とともに家の中へ姿を消し、ムロカの目の前で音立ててドアは閉められた。  ポカンとして、しばし立ちすくむ。  それから深い溜め息をついて、踵を返した。 「まったく……なんて非礼な家だ……あれじゃあハヤも苦労する」  訪問者に茶も水菓子のひとつも出さないなんて。ケチな家に嫁いだ気の毒なハヤを、やはり自分が救い出さねばなるまいとムロカは握りこぶしを固めた。  しかし……今から探すのでは到底間に合わない。ハヤを妻にするのは、祭りが終わって村の連中がもっとマシな家や土地を用意し、ムロカに両手をついて詫びをいれてきてからでも遅くはないだろう。  来た道を戻りながらムロカは空腹を覚え、先程の家でなんのもてなしもなかったことを繰り返し呪った。  
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