ハヤ

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ハヤ

 結った鳶色の髪が、枝にひっかかりばらりとほどける。ハヤは構わずに歩き続けた。  願いの実の祠をあとに、村へと向かう途中である。  舗装された道を選んで歩いてきたのは、万が一にもムロカと出くわさないためだった。川に沿って上流へ向かうよりは遠回りなのも承知していた。  日も暮れて夜になり、思ったより時間がかかり過ぎていると気付いてからは、近道を選んだ。  女の足でも、止まらず歩き続ければ夜には村へ着くと見込んできたが、この調子では明け方か、もっと遅くなるかもしれない。祠へのお礼参りといって婚家を出発したが、多少距離はあっても同じ町中のことだからと、足元は軽装だ。痛む足に意識を持っていかれては、川の音に耳をすませて道を誤らないよう注意する。藪でひっかき傷を作り、虫にも刺されながらどんどん歩く。  若い頃はお転婆で手が付けられないと言われた自慢の体力も、さすがに下り坂だろうか。着物の肩で汗を拭うと、どこかで頭上に垂れ下がる枝葉を払った時にくっついたらしい泥や葉っぱが、頬でじゃりじゃりと擦れた。 (また、こんなところに泥くっつけて……)  優しく拭ってくれるジウの声と、頬にふれる柔かな手指の感触が思い出される。目の下に膨れ上がる涙をハヤは指先で弾き飛ばした。泣き崩れている暇はない。もう村はすぐそこという、滝壺の音も近づいてきている。  そこまで来て、滝の脇をのぼる高巻きの道か、安全に迂回する道かを迷った。  滝は、大人の男の背丈ふたつみっつ分くらいの、さほど大きなものではない。せめて五年、いや三年前なら、ためらわず滝のシブキを浴びながら登っただろう。  今は、万が一にも途中で足を滑らせ足を挫くことのほうを恐れた。  迂回する道を一心に歩きながら、町で見聞きしたことを思い返す。  お礼参りにやってきた祠は、人だかりができていた。願いの実が盗まれたというのを聞いたが、そのうえ後から、台座の盃を盗もうとして捕まった間抜けがいると聞いた。  その間抜けが言うには、自分の姉が生贄になったので願いの実に願掛けに来た、実がないなら盃でもいいだろうと拝借していくつもりだったと。  この辺りで生贄などという昔話めいた習慣を持ち続けているのは、ハヤの村くらいなものだ。そして、生贄の条件にあたるのは、村にはハヤのほかは、ジウだけだった。 (話を聞いただけでも、その間抜けって、間違いなく、あのムロカだし)  兵役から戻ったムロカが、何にかぶれたのか突然村の慣習に難癖をつけてまわって煙たがられているのは知っていた。ジウになにもかも世話をさせ、そのうえ気苦労もかけているムロカのことが、大好きなジウの弟で、唯一残された身内だとは分かっていても、苦々しく思わずにはいられなかった。顔を合わせるたび、嫌味のひとつも言ってやりたいのを、ジウが悲しむからと目をそらして耐えてきた。  そんなハヤの態度をどう解釈したものか、いつもはもじもじと部屋の奥へ引っ込むムロカが、あるとき、いつの間にか背後に立っていて、こう言ったことがある。  ――姉さん女房は金の草鞋を履いてでも探せっていうけど、古い迷信だよ。若いほうがいいに決まってるじゃないか。  ギョッとして振り返ると、ぶつかりそうなほど至近距離にいて、思わず後ずさった。そんなハヤの様子を見て何故かニッタリと笑い、  ――まあ、ひとつくらいは古い言い伝えを守るのも、悪くはないけどね。金の草鞋はあんがいすぐそこにあるものだし。  意味が分からず返事もせず、ほとんど逃げ出すようにしてジウの元へ駆け寄ったが、あれが「おまえを嫁にもらってやる」という意味だったのかもしれないと気づいたのはつい最近、生贄から開放され慌ただしく嫁いだあとだった。 (あたしは自分で願掛けに行けた……でもムロカが来たってことは、ジウはもう清めの贄籠の中だわ)  生贄には身内の者だけが桃を届けることを許されている。たった一人の身内であるムロカはそれを分かっているだろうか。  最初に白羽の矢が立ったのは確かにハヤだった。そこには長老衆の配慮が含まれていたとハヤは信じている。  ジウに比べ体力もあり、清めの間に衰弱しないよう助けてくれる身内も多い。ジウには弟のムロカだけだ。ハヤなら生き延びて下流で拾われる可能性が高いと踏んだに違いない。  下流の町では、流れてくる女を縁起が良いと喜んで家に迎える。やり手の長老衆は当然知っているし、村の中でも公然の秘密というもので、なかなか嫁にいかない娘は、祭りの生贄のもうひとつの運命について、こっそり親から聞かされるのだ。  ハヤは黙々と足を運びながら、眉根を寄せる。  誰もが知っているのにもかかわらず「秘密」であるためには、秘密を知らない者か、知らされていないと信じている者が必要だ。  祭りを取り仕切る長老衆が、生贄は多くの場合は川の神に捧げられることはないなどと、知っていてはいけない。  そしてムロカは、秘密を知っている者として儀式廃止に騒いでまわったのではない。まるで知らない者として、長老衆を説き伏せようとしたのだ。  実際、知らなかったのだろう。  生贄は籠から出ることができても、村へは帰ってこない。それは儀式の体裁を保つための事実だ。  しかしムロカは籠の上の、返しのついた穴から出られるのだと、村の者たちへ演説してまわった。まるで聞き分けのない幼児に言い聞かせるように、時には憐れみを隠しきれないという歪んだ微笑みを浮かべながら。  ハヤは唇を噛む。  生贄の役を解かれ、あれよという間に嫁がされた。ジウと言葉を交わすこともできず村を出たのは辛かったが、生贄ではなく嫁ぐのだから、落ち着いたらすぐにでも訪ねるつもりだった。  ムロカの訴えを長老衆が聞き入れることにしたというのは信じられなかったものの、ジウにまた会えるならと深く考えなかった。  長老衆は、生贄の儀式をやめるのではなく、生贄としてムロカの姉を差し出させることにしたのだ。 (まさか、ムロカへの罰……それとも報復なんてことは……)  川の神様の祠を清める役だった青年衆の一人が、滝壺に落ちて死体であがったのは、いつだったろうか。ムロカが兵役から帰ってきてすぐのことではなかったか。  もっと前から帰っていたが、ちょうどそのあたりに、川の神を祀ることに異議を唱えだしたから、そんな気がしているだけだろうか。  その日、ムロカと言い争う声を聞いた者や、血相変えて走り去るムロカを見たという者もいる。  だけど、誰もその場に居合わせたわけではない。死んだ青年は、長老衆の一人の息子だった。  事故ということでおさまったのは、その長老衆が、臆測でものを言ってはいけないといって場をおさめたからだとも聞く。  ハヤは足を止めた。 (ムロカが無関係なら、それこそ、川の神を祀るのは無意味な証拠だとか言いそうなことなのに……)  さすがにムロカでも、ひとの不幸を自説の正しさの具に使うのを憚ったのだろうと、可能性を考えもしなかった。とはいえ、仮にムロカが関わっていたとしても、それと生贄廃止を言い立てることの関係は分からない。  ハヤは首を振り、乱れた髪を両手でかきあげた。 (なんであれ、ムロカがうるさく言い立てたものだから、長老衆はジウを生贄にするなんてことにしたんだわ……まさか姉を差し出せと言われて、承知するなんて思わないでしょう……だとしたら、ジウは純粋に巻き込まれた被害者……)  では、ムロカが願掛けに来ていたわけは?  祠の周囲の店で聞いた話では、姉が生贄になったので願掛けにと言っていたという。自分の主張を通す代償としてジウを差し出したのなら、ムロカがすすんで、生贄から姉を逃がしてとは願わないだろう。助かるようにという願掛けなら分かるが、頑強に、生贄の無意味さ、誰も死んでなどいないなどと主張していたムロカなら、そんなことは願わないはずだ。  ほっそりしたジウの立ち姿を思い浮かべた。ふざけて一度だけ抱きしめたことのある、なよやかな肢体。籠を編んでいる割竹一本も折れそうにない繊細な指。赤切れで彩られているのを目にした時は、家事をまるで手伝わないというムロカに殺意が湧いた。 (ジウには、とてもじゃないけど贄籠で川に流されたりなんかしたら……そのまま川の神に捧げられてしまうわ……あたしだって怖くないわけじゃなかった……そうよ、生贄になんて、なりたくないに決まってる……)  あれほど生贄は籠から簡単に出られると主張していたムロカが、姉のために願掛けをする理由はない。とすれば、ジウが使いに出したのだろう。昔からムロカは、お使いの内容を紙に書いてさえやればよくこなしていたと聞く。  願いの内容を想像し、ハヤは立ちすくんだ。 (――恨まれているかもしれない、あたし、ジウに……)  あの優しいジウが、呪詛を、願いの実に持ち込んだとは思わない。しかし、助かりたいと願ってのことだとしても、元々白羽の矢が立ったハヤがのうのうと逃げ延びて、ほかの男のところへ嫁いだのを、何も感じないでいられるだろうか。 (ああ……――)  激しく頭を振って、浮かんできたジウの、恨みをこめた眼差しを追い払う。優しくたおやかなジウの表情に、そんなものを見たことはない。ムロカを見るときでさえジウは、時に憤りを滲ませながらも、悲しそうにしているのだった。 (ジウ――ああ、あたし……)  何故、村へと急いでいるのか分からなくなってしまった。  ただ会いたさに、婚家へ連絡も入れずにここまで来たが、会ってどうするというのだろう。身代わりを申し出ても、清めが間に合わない。そうでなくとも、嫁いだ以上はもう未婚の女としての資格がない。 (ジウ――願いの実なんて、とんだインチキなのよ……)  ハヤが願ったのは、たったひとつ、ジウの幸せだった。  早々に婚家で息詰まる思いを感じたハヤは、外出の口実に祠へのお礼参りと言ったが、実際は、重ねてジウのこれからを願うつもりだった。それでは夫も姑も納得しそうになかったので、生贄になることを免れたのは、そういう願掛けをしたからだと嘘をついた。早くお礼参りにいかないと罰があたると泣き崩れる演技は、さすがにやりすぎだったかもしれない。  生贄になったら、生きても死んでも、村へは戻れない。半分より多いくらいが下流の町に流れ着いて、生き延びているとはいうが、それも含めて「川の神の采配」として、村のものではなくなったという扱いを貫かなければならないのだ。つまり、生贄になったハヤには、ジウの方から会いに来ることも、村の迷信どおりなら、禁忌である。  もう会えなくなる優しいジウのことを、どうか幸せであるようにと願ったのに。  ハヤが生贄から逃れ、ジウが生贄となった。  不意に、これまで思いもしなかった可能性に気付いてハヤは棒立ちになる。  願掛けには、生贄に決まり、清めの日取りを決める前に行ったのだから、逃げ出すのではないという誓いとして、行く先は村中が知っていた。 (生贄になんて、なりたくないに決まってる……?)  だから、誰もが、ハヤは生贄から解放されることを願掛けしたと、考えたのではないか。それだからこそハヤも、そのほうが本当らしいからと、婚家に嘘をついて出て来たのではないか。 (違う、だってあたしはこのとおり健康で丈夫だから……兄さんたちだって、おまえは殺しても死なないやつだって言うくらいで……でも……)  この状況、ハヤが嫁ぎ、ジウが生贄となっている今この状況が、ハヤの願いの結果なのだろうと、誰も思わずにいられるだろうか。もしもハヤが、生贄なんてまっぴらだと願掛けして、その願いが叶えば、村には、かわりになるのはジウしかいない。それも、誰もが知っていた。 (違う、だってあたしは、ジウさえ幸せならそれで……)  そんな思いを、誰にも、ジウにさえ打ち明けられないまま、それでもきっと同じ思いでいるはずだとほのかに信じながら、これまで生きてきたのに。 (あたしは、ジウが……――)  白い禊の着物を着たジウが、見たこともない冷ややかな目をこちらへ向けている。  それは立木を見間違えただけの幻だったが、ハヤはそこへ杭で打たれたように立ちすくみ、動けなくなった。  
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