食い意地

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食い意地

 滝壺のあたりでムロカは、大きく水の跳ねる音を聞いた気がして身をすくめた。  可愛い嫁を連れて帰るはずの村への道を、とぼとぼ一人歩きしているのがどうにも腑に落ちないと、腕組みし首をひねりしながらの遅い歩みだ。  滝の音が騒がしいから、魚がはねたくらいの音は掻き消える。流れが穏やかになったあたりには鯉がいるらしいが、生贄を食らう川の神は滝壺に住んでいるという言い伝えなので、釣り糸を垂れてみる者はいない。  ムロカは無論そんなことは信じていない。ただ、釣りは趣味ではないだけだ。  それでも、なにがなし気にかかるものを感じて、そっと草をかき分け流れを覗き込んだ。ちょうど岸がえぐれるように湾曲していて、淀んだ流れの上を足の細い虫がスイスイと跳ねていく。小さな波紋がいくつも現れては消えるのを目で追うと、暗い水底から不意に、こちらを見上げる女の顔をムロカは見た。 「う、ぇ……っ」  のけぞったムロカはそのまま後ろへ尻もちをつく。見えたと思った女の顔は、姉のようにも、ハヤに似ていたようでもあった。  そのどちらでもなかったとしても、ここは川が暴れるたびに、生贄を流してきたその先の淀みなのだ。  ムロカは全身の毛が逆立ち、血の気がひいていくのを感じた。  もう一度確かめようと水面を覗く気にもならない。尻で後ずさり、じゅうぶんに川岸から離れたところで後も見ずに駆け出した。滝の脇を通る高巻の道など当然選ばない。ぐるりと迂回する道を駆けに駆けた。  足の速いのが、ムロカの自慢なのだ。 「――水……っ、水!」 「水をください、だろう。ったく、あんたは何歳になっても」  飛び込んだ店先で、ぶつぶつ言いながら煙管片手に水を差し出したのは蕎麦屋の女亭主だ。結局ムロカは、母親も姉も懇意にしていたこの蕎麦屋を目指して逃げてきたのだった。  立て続けに三杯飲み干し、ようやく人心地ついて椅子に座りこむ。ハヤを連れ帰るつもりだったこともすっかり忘れ、青い顔で卓にこぼれた水滴を見ていた。  歪んだ形に盛り上がった水滴は、目を凝らせば女の顔がうつっているようだ。それは心配そうに見ている女亭主の顔が映っているだけなのだが、ムロカは手のひらで卓を拭って恐ろしい幻を消した。 「いったいどうしたんだい? こそこそ出ていったかと思ったら、今度は大慌てで戻ってくるなんて」  これが村の男衆なら別だったが、ムロカは問われるままに見たものを話した。が、女亭主は想像力というものがないのか平気な顔で肩をすくめる。 「そりゃあムロカ、あんたの顔が映ったんだろうよ。子供の頃はジウの小さい頃かってくらいそっくりだったじゃないか。ああ……まあ今は、だいぶ痩せないと間違えるってことはないだろうけど」  ムロカは上目遣いになって、水で濡れた顎のあたりをつるりと撫でた。  確かに子供の頃は、可愛い可愛いとちやほやされる女顔であった。男らしく横幅の増えた年頃からは、若い女は遠巻きにするようだったが、中年女にはかわらず可愛がられてきたものだ。  あれは自分の顔だったのだろうか。気持ちの良くない一瞬の記憶を遡ると、水底から女は両腕を差し伸べているようでもあった。だからなおさら恐怖を覚えたのだ。 「そんなことより、ジウに会いにいかないのかい?」  水底の不気味な顔の話など、もう気にかけない様子で女亭主がお茶を出した。暑いときには熱いお茶という古臭い知恵をムロカは嫌っているが、いまは文句も言わず大人しく茶をすすった。  人心地ついてから、卓に肘をついて首をふる。 「そりゃあ、僕が行ったところで、もうやることはないもの」 「なにを薄情なことを。たった一人の身内のあんたが、やらなきゃいけないことがまだまだあるだろう?」  たしなめるような口調に、ムロカはイライラと言い返した。 「知ってるよ。桃なら最初の日に持っていったさ。願掛けも、僕は必要ないって言ったけど、姉さんがどうしてもっていうから町まで行ってやったんだ。ほら、あの男、僧侶を連れてきただろ? これ以上、何をしろっていうんだよ」 「最初の日って、一度しか行ってないのかい?」  それがどうした、と睨みかけてから、ムロカは哀れっぽく顔を覆った。 「ああ、僕が生贄になるなら良かったんだ。僕なら間違いなく、あんな贄籠なんかバリバリ破って出てこられる。だけど、生贄は女と決まっているだろう? 仕方なかったんだ」  悔しそうに頭を抱えてみせたが、女亭主は感じ入った様子もない。 「三十過ぎの未婚というからね。考えようによっては男のあんただって、三十過ぎの未婚じゃないか」 「馬鹿なこと言うなよ」  顔を白くしてムロカは首をふり、熱燗を一本頼んだ。女亭主も首を左右にする。 「祭りは今日の深夜だって忘れたわけじゃないだろうね。ジウに新鮮な桃を食べさせておやりよ。あんな細い体じゃ、きちんと食べてたって清めに耐えられるかどうかって心配で……」 「だから、桃なら最初に持っていったんだってば。もういいだろう」 「最初に三日分かい? これだからもう……冷えたのを三度三度持ってってやろうとは思わなかったのかい?」 「三度って……三つもあれば多いくらいだろ。それに姉さんったら、僕に桃を投げつけてきたんだ。女は全然食べなくたって平気だから、あんな食べ物を粗末にすることができるんだな」  女亭主の煙管から、灰がこぼれ落ちた。  卓子に焦げあとを作る前に払い落とし踏み消してから、ぐいとムロカへ詰め寄る。 「……ねえムロカ。あんた女は食べなくても……とか言ったかい?」  ムロカは顔を背けた。この話をすると姉はいつも怒った。この女亭主も、姉と同じで食い意地が張っている女だったのか。こうして他人の食事の世話をする商売をしている以上、母親と同じなのだとばかり思っていた。 「まさか、あんたの母さんが時々こぼしてたこと……まさかそんなわけないだろうって、あたしゃ笑い飛ばしてたんだけど、あんた本当に、自分の母さんや姉さんの食事を勝手に食っちまって、なんにも食べられないようにしてたのかい?」  面倒なことを言い出したなと、ムロカは横を向いたまま顔をしかめた。なぜそんなことを持ち出されるのか分からないが、姉と同じ説教を始めるのだろうと予想はついた。  ため息をついて、女亭主の思い違いを正す。 「そんなことしてないよ。母さんはいつも、自分は煮汁や茹で汁で満足なんだって、食べられない肉や魚なんかは僕の器によこしてたんだ。だから、姉さんにだってちゃんと煮汁は残しておいたよ」 「煮汁や、茹で汁……」 「肉や魚の栄養が溶けてるから、それでもうお腹いっぱいになるんだってさ。母さんはちゃんとした女の人だったよ。ひとの世話をする女ってのは、食べさせてやることが生きがいだから、自分は食べなくても平気なんだって、僕に教えてくれた。その点、姉さんときたら……」  言ってからムロカは、そういえばこの女亭主は、独り身といっても亭主に死に別れたのだったと思い出す。そうであるなら、少なくとも亭主に食べさせていた間は、自分は少しの汁と、碗に残った飯粒で腹がふくれただろうに、覚えていないのだろうか。 「……あんた、そんなことどこでいったい……ああ、あんな天使みたいな子がそんなことするもんかって、あたしゃ信じなかった……笑って、つまんない冗談だなんて……」  突然涙ぐんで鼻をすする女亭主に、ムロカはしばしポカンとした。母親が、生きている間になにか言ったのだろうか。  意地汚い女は、食べる必要がないとは知られたがらないものだが、母親はそうではなかったはずだ。しかし姉は、母親だって食べないといけないのだなどとつまらない嘘で、よくムロカを誤魔化そうとしていた。母親が死んで、姉がムロカの世話をするようになってからも、当たり前に食事をとろうとする姉には、ムロカが仕方なく、罰として姉が作った菜や炊いた飯を、全部先に平らげてやったりしたものだ。 「あたしは、とんでもない間違いを……」  おのれの無知を悟ったようで、女亭主は青い顔をしてムロカを見つめた。 「ムロカ、あんた、まだ間に合うよ。ジウを助けておあげよ」 「なに言ってるんだよ、何もしなくたって籠からは出られるんだって、僕はずっと言ってるだろう」  突然話題が変わったことに戸惑いながら、衰弱した姉の姿を思い出した。あんな様子では、たとえ籠に入れられていなくても、川に流されただけで死んでしまいそうだった。あれでは生きた姉と村へ戻って喝采を浴びるという計画が台無しになってしまう。どこまでも自分の人生の邪魔をする姉に、忌々しさが募る。  そのかわり、ハヤはケチな婚家に愛想を尽かして逃げ出したらしいから、きっと数日のうちに自分の嫁にしてくれと忍んでやってくるだろう。それなら二人で、この村とは違うどこかで人生をやりなおすのも悪くは無い。幸い、姉が独り占めしていた金は、今はムロカの懐にあるのだ。 「いいから、あんたが助けるんだよ! 先の生贄だったハヤなら、あれは頑丈な娘だし、身内の者も多いけど、でもジウは、あんたの姉さんは……」  腕をつかんで揺さぶられ、どうしたものか唇を尖らせてムロカは考える。確かにハヤはいかにも頑健そうな娘だった。美しく朗らかで、働き者で、嫁にほしいという話はいくらでもあったはずだが、すべて断り三十過ぎても未婚だったのは、このムロカがいたからだ。もっともムロカ自身は、ハヤのその快活さ頑丈さが、自分より若くないという以上に引っかかっていたのだが。  可哀想なことをしたと思うが、ハヤが素直になって自らムロカへすがってくるなら、受け入れてやらなくもない。  しかし、ハヤは婚家がケチなのがイヤだと早々に出奔したのだ。もしかして、非常に贅沢好きなのではないだろうか。客に茶菓子を出さないくらいの些細なケチぶりで見限るのだから、そうかもしれない。 「聞いてんのかい!」  大きな声を出されて、ハッと深い考えから我に返った。妙に冷静になった心地で立ち上がる。そういえば、酒を頼んだのにまだ出てきていない。 「僕と一緒に来た坊さんは?」 「誰だって? ああ、あの方なら、あんたがこそこそ出てったあとに出発されたよ。祈祷の準備があるとかおっしゃってね」 「ふうん」  考え込みながら蕎麦屋を後にした。背中に女亭主がなにか叫んでいるが、聞こえないふりをした。  祈祷の準備など嘘か方便だろう。しかし本当に姉がハヤの夢を見ることができたなら、それはそれで良い。できなかったなら、それもまた、仕方の無いことだ。生きて籠から出られれば、会うこともできるだろうし、出られなければ、それまでのことだ。  水底から手を伸ばしてくるように見えた女の顔が、やはり姉だったように思えて、ムロカはしばし足をとめて寒気に耐えた。
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