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 祭りの支度は、日が落ちてから始まる。  生贄の清めが始まった日から削り出しておいた経木で舟を編むのだ。  薄い経木の舟は、まるで笹舟のように軽い。しかし普段は日用品などを作り村の名産品となっている特別な編み方で、驚くほど丈夫だ。  女一人を閉じ込めた贄籠を乗せて、川下りができるほどに。  とはいえ、滝から落ちても、というほど頑丈なはずがない。滝まで流れつく前、川の途中で岩にでも乗り上げれば、生贄は籠ごと流れに投げ出される。  舟を編む、木切れのシュルシュルと擦れる音を聞きながら、ジウはつかの間、座ることもできない贄籠の中で夢を見た。  最後にひと目会いたいと願ったハヤが、苦しそうな目で見つめている。ああ、とうたた寝のうちでジウは胸をおさえた。  そんな顔を見たかったのではない。笑っていてほしかった。幸せになってほしかった。  最初にハヤが生贄に決まったとき、別れは決まったのだ。快活で頑健そのものなハヤは、きっとあのまま生贄であっても、儀式から生き延びただろう。村では公然の秘密だが、そうした娘は下流の町で歓迎され、誰かと結ばれる。村ではもちろん川の神に捧げられたものとされるから、二度と戻れない。  別れは死ぬよりつらいと言うが、それでもどこかで幸せに生きていてくれるなら、それで良かったのだ。  ムロカが起こした騒動で、ジウが生贄に代わることになったとき、また弟に振り回されるのかと怒りがないでもなかったが、むしろこれで良かったのだと思えた。  どうせハヤと共に生きられないのなら、弟の不始末をこの命で贖うのも、ハヤの身代わりになるのも、それはそれで良い身の始末の仕方だと思えた。 (――ハヤは、町にいる遠縁の男のところへ嫁にやったから)  生贄になることが正式に伝えられた夜、ハヤの母親がそっと訪ねてきた。ジウが代わりの生贄になったことは知らせないまま、ハヤはもう村を出たと、目を伏せたままで言った。会うのは久しぶりのことだったが、ひどくやつれていた。  いくらハヤなら生き延びるだろうと見越していても、絶対ではない。親の心痛はどれほどだったろう。白い髪がまじるこめかみのあたりを見ながら、ふと、ハヤとジウがどれだけ思い合っていたかを、この母親は気づいていたのかもしれないと思った。 (あなたも、気を確かにもって、川の神様のお目こぼしをもらえば……もしかしたらきっと)  そうすれば、生きて下流の町のどこかで、また会うこともできる。  村の中で、生贄が川の神に受け取られずに生き延びている娘も存在するという事実は、口にするのはご法度だ。ぼかした言葉の先をジウは理解していたが、とうに諦めていた。  むしろ、生き延びたくなどない。  再会できたとしても、それは互いに誰かの人妻としてだ。いっそ川の神に食らってもらったほうがどれほど良いか。  それに、たった一人の弟であるムロカは、生贄の身内のなすべきことを理解しない。三日三晩、何も食べずに清めの水に打たれるのがどういうことか、想像できもしないのだろう。実際、桃を差し入れに来たのは最初の日だけで、それもハヤの父親が持たせてくれたのだ。  苦い笑いが、眠るというより気を失っているようなまどろみを破った。おかしくてたまらない、というように腹をおさえる。  母親が甘やかした弟は、おかげで自分の世話をする女が、ひとなみにものを食べるものだということを忘れてしまった。母親の皿から先に箸をつけて奪い去っていく弟を諌めても、逆に母親からたしなめられてしまう。 (お願いよ、ジウ……あの子には、父親がいない苦労を味わわせたくないの……)  息子にだけは腹いっぱい食べさせてやりたいのだと、かわりに何も食べられない母親に、自分の皿からそっと分けてやると、それもまた可愛い息子にと食べさせてしまう。そんな母親が死んでから、ムロカは姉がどうして食事を全部自分に寄越さないのかと本気で訝しみ、腹を立ててさえいた。  ああ、と苦しい記憶を打ち払うように首を振る。  せっかく、悲しげで苦しそうとはいえ、誰よりも大切な、ハヤの夢を見ていたのだ。 (あたしは、これでいいの……)  こうなったことは、絶対に知られたくなかった。だから、夢の中だけでと、評判の願掛けにムロカを使いに出したのに。祠の僧侶とやらを連れてきてから、ムロカは顔を出していない。  思い返せば、あの僧は、人当たりは良いが、そこがかえって胡散臭かった。若すぎるし、宗教よりは武術の修行でもしているような体格が着物の上からも見てとれた。もしかするとムロカも、信用できないと踏んで、最初に言っていたとおりハヤを呼びに行ってしまったのだろうか。 (いやね……夢なのに)  小さく息を吐いて、両手をもみ絞る。手をつなぐのが精一杯の仲だった。夢なら、せめてハヤにふれさせてくれてもいい。少しでも疑う心のあったのがいけなかったのか、どうせなら欲深く、一度だけじゃれあって抱きしめあったあのときのように、もう一度だけ……。  ごうごうと篝火の焚かれる音がした。  ずっと細く流れ続けていた清めの水は、これで最後とばかりに小さな滝になって生贄の身を打ちすえる。  狭い籠の中で、ジウは虚ろな目を瞬いたのを最後に、今度は夢も見ない暗い虚空へ意識を飛ばした。
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