1/1
前へ
/20ページ
次へ

 蕎麦屋の女亭主はムロカを見送ったあと、二階の室に入った。  衝立の向こうにいるのは、今は僧侶姿の男ではなく、軽装だがそこそこ良い仕立ての着物に、ほどけた鳶色の髪をざらりと散らしたハヤだ。  室に上がるとき土埃は払い落としたものの、街歩きの支度で山歩きをしたために、あちこち擦り切れ汚れている。身繕いする気力も残っておらず、ついたときに足を洗うのが精一杯だった。  女亭主は窓から外を伺い、立ち止まっているムロカがまた歩き出すのを確かめてから、そっとハヤへ声をかける。 「悪かったよ……あたしゃ何にも知らなかったんだねえ」  元は勝ち気そうな目を、今は泣き腫らしているハヤは身動きひとつしない。 「あたしが知ってるのは、そりゃあ小さくて、可愛い男の子だった頃のムロカだったから……。とっくにいい大人になってる年なのに、あのポチャポチャした様子や、柔らかそうな頬っぺたを見てると、なんだかこう、いつまでも赤ちゃんを見てるような気分でねえ……」  重たい瞼を瞬いてから、ハヤは唇の端だけで笑った。 「そうね……それ、ジウもよく言ってたわ。まわりがみんなそう思い込んでて、ほんとうのところジウやジウの母様がどんなに苦労してるか、誰も分かってくれないって――」  前掛けのすそをもみながら、女亭主はうなだれる。 「煮汁、茹で汁の話、ここまで聞こえてた。あたしだってジウが打ち明けてくれたのじゃなきゃあ信じられっこない、本当にありえない、馬鹿な話よね」 「……本当に、そんなことって……」 「ジウのお母様が始めたことなのよ。お父様が亡くなって、ジウが働ける年齢になるまでの間は生活が苦しくって。でも、父親がいないせいで惨めな、ひもじい思いをさせたくないからって、ムロカにだけは、いつも、いつでもお腹いっぱい食べさせてやるんだって……そのために、自分は肉も魚も、野菜もお米も、何にも食べなくたって平気なんだ、器に残った汁をすするくらいでお腹いっぱいなんだって……」 「でも、そんな馬鹿なこと、あたりまえの子なら信じやしないでしょうに。小さい子どものうちならいざ知らず、誰だって大きくなれば、そんなのは、自分のために嘘をついてるんだって、ちゃんと気が付くだろう……?」  ハヤは、なにか言い返そうと開いた口の形のまま、ゆがんだ泣き笑いの顔になった。 「でも、ムロカはそのまま、図体だけ大きくなった。ムロカは当然、痩せて衰えていくお母様に言っても聞きやしない、まわりのひとに相談しても、みんな、男の子はそんなもんだって。よく食べる元気な男の子で何が不満だって笑うんだって……そうよ、あたしだって最初のうちは、あいつがあんなにぶくぶく肥えているのはお母様の食事まで食い尽くしてるからなのねって笑い飛ばしたわ。本当におかしいって気が付いたときには、ジウのお母様はもう、心まで病んでしまってた。あたし……何にもしなかった……食べ物をこっそり持ってったところで、あいつが見つけ出して食べちゃうんだもの」  ああ、と前掛けから目をあげてトセはうめいた。 「あんたたち、二人連れで来るとかならずものすごく食べて……瘦せの大食いだなんて笑ってたけど、あれは……」 「あたし、何にもジウの助けになれなかった――」  新しい涙がハヤの頬を伝う。 「ねえトセさん、ジウ、やっぱりあたしのこと恨んでるよね。何の役にも立たなかった、あたし、ずっとそばにいるって誓った、なのに、こんなことになって……あたしが生贄のままでいたらよかったのに、こんなことになって……」  トセはまだハヤとは目を合わせられない様子で首を振る。 「ごめんねえ……あんたたちのこと、あたしゃ知ってたのに、いいえ、知ってたからこそ、あんたがムロカと夫婦になればいいと思ってたのよ……」 「それだけはイヤ。イヤだって、何度も言ったわ」  キッとなってハヤは身を起こした。 「分かってた。そうすれば体裁は取り繕えるって。でも、あいつはあたしが、あいつの嫁になりたがってると思い込んでニヤニヤしてたのよ。嘘に嘘を重ねるにしたって、そんな嘘は絶対にイヤ。ジウの弟だからって、その弟がジウを苦しめているんだから……それに……そうよ、そんなことしたら、生贄が必要になったとき、ジウしかいなくなってしまうから……あたしも生贄になる資格を持ち続けていれば、いざというとき、あたしが生贄になればいいんだって……それで、そのとおりになったっていうのに!」  わっと泣き伏す背中をさすりながら、トセは謝り続けた。 「あれほどとは思わなかったんだよ……ムロカが食べ物を食い尽くしてしまうなんて、ちょっと大袈裟に言ってるんだとばかり思ってた。父親が死んでからは、大事な跡継ぎだって大事にされて、甘やかされたせいでちょっとぼんやりな、ズレたところもあるけど、男の子なんだし、それくらい可愛いもんじゃないかって……」  背中の手を振り払うようにして、ハヤは身を揺すり、うずくまったまま窓際へとにじり寄った。日が暮れれば祭りの支度が始まり、篝火もここから見えるだろう。窓外へ向けた横顔に、涙で濡れた髪がまとわりついている。 「あたし、どうしたらいいんだろう……せめてひと目会いたい、会えばなにかできるかもしれないって、ここまで来たけど、恨まれてるなら――怖い。ジウに恨まれるくらいなら、代わりにあたしが生贄になりたい……」 「ムロカが、きっと助けてくれるよ……なんといっても、たった一人の姉さんだろう?」 「でも、全部ムロカのせいなんでしょ?」  窓枠にすがるようにして上体を起こしたハヤは、再びキッとなってトセを睨んだ。 「生贄は止めになったから、何も聞かずに嫁に行けって嫁がされたけど、お祭りが止めになったんじゃなく、生贄が、ジウが代わりになってるっていうなら、決まってる。ムロカのせいだ。生贄の儀式をやめろって騒いでた。長老衆の身内が川に落ちて死んだのだって、ムロカが絡んでるんじゃないかって噂があった。あいつが全部悪いのよ。そんなムロカが、ジウを助ける?」 「それは、だから、悪いことをしたって、反省してるかもしれないじゃないか……」 「さっきはそんな様子に見えたとでもいうの?」 「町まで行って、姉さんに頼まれたからって、僧侶を連れてきてたよ……祈祷をするんだって」 「お祈りして何になるっていうのよ」  やはりムロカは願掛けに来て、願いの実が盗まれていたからと、かわりにそこらの僧侶でも連れてきたのだろう。それはムロカにしては機転が効いているといえなくもないが、役に立つとも思えない。  二人して沈黙した、その時。  村中に、コォォォーンと鐘の音が響く。  ハヤは青ざめた顔を窓外からそむけ、床板に爪を立てた。  鐘はこれから時を置いて二度鳴り、次に三度鳴る。  それが祭りの始まりの合図だった。  
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加