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 祭壇は、ない。  四阿(あずまや)を組んでいた枝木を男衆がめりめりと剥ぎ取って、篝火にくべていく。  解体される四阿から細長い贄籠が露わになって、これは白装束の男衆五人が、薪の束のように肩へ担いだ。  籠の中の生贄は、しおれた水仙のように男たちの歩調に合わせて揺れる。  祭りを取り仕切るのは長老衆で、力仕事のための男衆のほかに村の者の姿はない。三度目の鐘のあと、次に祭りの終わりを知らせる鐘が鳴るまでの間は、戸外へ出てはならない決まりだ。  川の流れを通奏低音に、火の中で枝が爆ぜ、生ぬるい風から湿気が燃やされる音が粒となって、黙々と手を動かす男達の皮膚を打つ。匂いと音と、煙と火の明るさに、老いた村人達は顔を背けながら儀式をすすめた。  籠ごと生贄を舟に乗せると、舳先に灯火具がぶら下げられて、油と火が入れられる。祭りとは名ばかりの、沈黙のうちに舟は川の流れへと押し出された。  少しの間、淀みにとらわれたようにふらふらと揺れていた舟が、行く先を不意に見つけたかのように、流れにのって滑り出す。後に残るのは、手を合わせ念仏のようなものを唱えたり、揺れる明かりをじっと見守り続ける者たちだ。川面をわたる夜風と、水音と、誰かの深いため息が、混じり合って篝火に高く吹き上げられていく。  ここよりいくらか下流、滝よりはずっと手前あたりの草むらから篝火を伺う影があった。  祭りの間、戸外に出てはならないという決まりは、生贄の身内の者が誰にも見咎められずに救い出すため、舳先に明かりがつけられるのは、夜の闇のなかで見失わないためだった。  それを理解しているのかいないのか、松明をかざしたムロカは、ゆるやかな流れに運ばれる舟を追って、草をかきわけ岸伝いに歩いている。  松明の火は、舟までは届かない。灯火のために舟の場所はわかるが、闇のなかで、贄籠の中の様子までは見えないのだ。月明りでかろうじて、籠の輪郭と、中に横たわる姿が見てとれる。それは舟に揺られるばかりで、自らの意思で動いている気配はなかった。  ムロカは大声で呼ばわった。 「おうい、何寝てるんだ! 起きろ、起きろよ!」  籠の中の肢体は、束ねた草花のように動かない。  声を上げたあとでムロカは、一度だけハッとして上流の篝火のほうへ顔をむけた。祭りを仕切る者たちに、こんなところを見られてはと考えたのだが、すぐになりふりかまわず姉を呼び始める。 「ちくしょう、役立たず! さっさと起きて、泳いでこいよ! 生きてないと困るんだよ! ああ……どうして姉さんは、いつもそうやって僕の邪魔をするんだ! 役立たず! 役立たず! そんなに僕の役に立たないなら、だったらもう、死んじまえばいいよ!」 「――役立たずはあんたでしょ!」  溜まりかね、草葉の陰から飛び出したのはハヤだ。いきなりムロカの背中を蹴り飛ばす。  もんどりうって転がるムロカが落とした松明を、素早く拾い上げ仁王立ちで見下ろした。 「おばさんが死んだときも、あんたそう言って、お弔いもろくに手伝わなかったわね! 全部全部ジウにやらせて、あんたは家長でございって座ってただけで! もうご飯を作ってくれない役立たずの面倒を、どうしてぼくがしなくちゃいけないんだって、文句言ってたのも知ってる。手伝ってくれたおばさんたちは、あんたが悲しみを紛らわすために冗談を言ってるんだなんて泣いてたけど、あれはあんたの、ただの本心だって、あたしは知ってるんだからね! そうよ、誰も信じなかったけど、だから、だからあたしはジウが……!」  途中からハヤは呂律がまわらなくなり、支離滅裂なことを叫んだ。転がったときに火があたったか、唖然と見上げるムロカの頬が黒く汚れている。  ハヤがあまりにいきりたっているからか、突然ハヤが現れたことに驚くあまりか、かえって冷静なように眉根をよせて、ひっそりぼやいた。 「そんなの……全部本当のことじゃないか。そもそも村が遅れてるのがいけないんだよ。こんな古臭い儀式なんかを信じて、大事にして、そのせいでエレキも来てない。……その松明だって、町に行けばもっと最新の明かりがある。熱くならないエレキの光だ。生贄で川を鎮めるなんて、ちっとも最新式じゃないよ……」 「うるさいうるさい! 生贄は実は死んでないんだって、長老衆に演説ぶったのはあんたでしょ! そんなのみんな知ってるのよ! そしてあんたは、どうして死なないのかを知らないんだ! 滝壺に落ちる前に、身内がここで待ち受けて助けるからよ。つまり、これはあんたの役目なの。さあ、助けなさい! 泳いでいって、舟をとめるのよ!」  ええ……とムロカは顔をゆがめて川を振り返った。こうしている間にも、舟は下流へと、滝のほうへと流れていく。 「そりゃ、兵役で水練はやったけど……そりゃあ、まあ僕はどこでもちょっとしたもんだったけど……今、ここで? 泳ぐの?」  ハヤは、穢らわしいものでも見るような一瞥を最後に、松明をムロカへ投げ付けざぶざぶと川へ走り込んだ。 「――ジウ!」  舟に近づくにつれ、ハヤの膝から上、腰から胸と、水はどんどん深くなり、抜き手を切って泳ぎ出す。着物のまま飛び込んだせいで、進みが遅い。途中で邪魔とばかりに破り捨てた袖が流れていった。  とうとう舟にたどり着いたが、流れていくのを押しとどめるまでの力はない。それどころか、横倒しの贄籠の中で横たわるジウの様子に青ざめて、へなへなと力が抜ける。  三日三晩の清めなど、伝え聞く限り身内がせっせと常でも食べないほどの量の桃を食わせるものだから、ここまで憔悴したりはしない。ジウはこの三日を水だけで過ごしたばかりでなく、それ以前から、必要なだけしか食べられなかったのだろう。二人で会うときはなんとかしてあれこれ食べさせていたが、それさえも、急に食べると体が受け付けないのだといって、少しずつ、時間をかけて食べるしかなかった。 「やった!」  川岸から、ムロカが叫ぶのが聞こえた。 「いいぞ! これで僕は村の英雄だ!」  松明を振り回し、こちらへ舟をひいてこいと指図している。ハヤには意味が分からなかった。ただひとつ、分かるのは、 (あっちは……あたしたちの帰るところじゃない!)  なんとか進みを遅くさせようと踏ん張っていたハヤだが、意を決して、転覆させないよう注意しながら舟の中へと身を乗り出した。  贄籠に手をかける。形は漁具のままだが、生贄に合わせて編んでいくものなので、入り口はジウの頭の側に開いている。返しがついているが、入る分には刺さらない。そこから両腕を差し入れ、肩までねじこんで、ジウの濡れた髪ごと小さな頭を抱きしめた。ほのかに伝わってきた体温に、涙があふれる。 「ごめんね……もっと早く来れなくて」  暗い川に流される舟のうえ、籠の中、ふいにハヤは、水音が遠ざかり、染み込むような夜の暗さも引き潮のようにひいていき、二人が、なにもかもに許された心地がした。  逆さまに抱いたジウの、冷えたくちびるにそっと触れる。柔らかさに、まぶたが熱く濡れた。  湧いてくる力を振り絞り、ジウの体をたどるように、贄籠の中へと這い進む。とうとう足先まで中へと潜り込んでから、ハヤは気が付いて笑い出した。 「あたしったら、本当に考えなしなんだから……足から入ればよかった」  一人の体に合わせて編んだ籠は、もう姿勢を入れ替えるすきもない。自分の足がジウを蹴ってしまわないよう籠のなかで身じろぎしながら、眼前にある素足を抱いて頬ずりした。冷たいつま先が少しでも温もるようにと、両手で包み、頬をあて、息を吹きかける。  最初は、気のせいかと感じた。 「くすぐったいわ……」  ハヤ自身の足先に感じる温かい息遣いと、囁くような懐かしい声。戦慄のような震えがハヤの身をつらぬいたが、すぐにこれまで何事もなかったかのような言葉を押し出した。 「……だーれだ?」  鼻がつまって、喉に絡むような声にはなってしまったが。足の甲に、頬ずりされるのを感じた。 「こんなところに頭から首をつっこんでくるようなバカな子、一人しか知らないわ」 「あたし、バカかしら?」 「バカで、いちばん、この世で私がいちばん大切な……いくつになってもやんちゃで、無鉄砲で、目が離せなくって……」 「――名前を呼んで」  折れてしまいそうなほど、目の前の華奢な足首をかき抱き、なにもはばかることなく涙を流す。  滝の音は、近くなっていた。  ハヤ自身に生贄の白羽の矢が立ったとき、いくら頑丈だと言われても、親はやはり嘆いた。すでに結婚して家を出ている兄弟姉妹までやって来て、おまえなら大丈夫と励ます顔が、本人よりも青ざめていた。半分ほどは死なずに身内が助けたり下流で迎えられるといっても、つまり半分は川底だ。生き延びる半分だって、村のうちでは川の神に迎えられたことになっているから帰ることもできない。  家族の顔は瞬く間に目の前を過ぎた。 「名前を呼んで」  懇願する。ハヤの足首にすりよせられた頬も、温かく濡れているようだった。 「ハヤ……」  滝の音が、急激に高まった。かと思うと音が消え、投げ出される浮遊感に酔いしれる。生まれたときから、この贄籠のなかで互いに互いしかいなかったように、逆さまに抱き合いながら、すぐに色も時間も消えてなくなり――。    その、半時ほど前のこと。  滝壺で、やはり水の中へと身を躍らせる姿があった。  濃い草色の着物を脱ぎ捨て下帯一枚、ざぶりと飛び込む。岸には主から切り落とされた黒髪の束が残った。  男は上も下もわからない渦巻く流れに揉まれながら、常人離れした膂力で一息に底まで潜っていく。魚の身ならぬ男だが、しかし迷いなく、この世との境のようにほのかに輝く水底を目指した。  突然、暗い水がそのまま凝ったような巨大な生き物が、男を掠めるように泳ぎ去る。咄嗟に男は、生き物の体から伸びる髭を掴んだ。凄い勢いで引っ張られる。身をうねらせて泳ぐ速さは、そのまま男を翻弄する水流となりもぎはなそうとする。掴んだ髭を手に巻きつけ、更に腕に巻きつけ、手繰り寄せ髭の根元にたどり着こうとしたとき、生き物は水面から大きく跳ねた。  もしも上流の、祭りの最中の村人たちが見れば、これこそ川の神と震え上がっただろう。真っ黒で、頭部は傷だらけの鯉のようだが、長い髭が、月明かりに金色にきらめいた。  鯰とも鯉ともつかない異形の魚は、空中に束の間、身を躍らせてまた滝壺へざぶりと潜る。引きずられた男は着水で水面にたたきつけられぐにゃりとなったが、魚の髭を肩口まで複雑に巻き付けていたせいで、そのまま水底へと引きずられていく。  水の中で、振りほどこうとするように魚が身を揺すると、男は一際大きな気泡を吐いてから目を開いた。意識はすでに体から飛び去っている目つきだが、まるで命綱のように髭を手繰り、とうとう背鰭のあたりを膝で挟んで大魚を捉える。魚の腹はちょうど男が両腕を回して抱えるほど太い。脚と腕できつく締め上げると、むき出しの皮膚がウロコで傷つき、無数の傷から血が滲む。血は滲むそばから水へと溶けた。  ――……これは、大盤振る舞いだな。  水中では不明瞭にしか届かない声が、魚の口から泡とともに吐き出される。無意識で動いているような男の目に、わずかに光が戻った。男の唇は最後の呼気まで絞りつくして開ききっていたが、口角が上がって、なにかを語るように動く。  ――……ああ、そうだ。もちろん血液も、おまえの精……唾液と、男の根から出る精だけが吾の力の源だと思っているのは、おまえが虚けだからだ……。  声が漏れ聞こえる間、魚は大の男が腕も脚も巻き付けまだ余る巨体を、激しくくねらせていた。  やがて、巨体が棒を呑んだように硬直したかと思うと、身震いし、あたりの水より濃い青緑色の液体とともに、赤子の頭ほどのかたまりを吐き出す。  くるくると回転しながら尾のように引いているのは黒髪だ。素早く絡めた髭をほどき、巻き締めていた魚体を蹴って、男は最後のひとかき、墨のように漂う髪を捉えた。そのまま意識を失う。  いくらか髪の短くなったらしい麗人の頭部は、滝壺へと落ちる水流へ飛ぶように進み、異形の鯉をちらと振り返ってから滝を昇りはじめた。激しい水の音を従えるかのように、天上の歌が沸き起こる。  得物を失った大魚は、恐るべき力で滝を昇り追いかけてきた。しかし、滝を昇り切ったところで、黒髪が水流に投網のように広がる中へと飛び込む。  髪は、大魚を捕らえるかにみえた。しかし大魚のほうでふいと身をひるがえす。  傷だらけの頭を下へ向け、落ちるというより自らの意志で滝壺へと去っていく、川の神の姿。
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