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 ――……水の中では役立たずと言っただろう、馬鹿め。  嗄れ声に罵られ、盛大に吐いた水で周囲の草を泥まみれにしながら、身をよじる男は腹を抱えて笑っているようにも見えた。溺死しかけたようにはとても見えない。 「そうかそうか、水に流れただけでも、そんな精力があるのか、俺の血は」  まだ咳き込む息の下から、嬉しそうに男が呟く。  傍らには、やはりずぶ濡れではあるものの、髪も肌も水をはじいて星明りに輝いているとしか見えない、生首だ。男が頬にのばした指先も泥にまみれていたが、頬を汚されても、そっと撫でるにまかせ、目をすがめる。 「――笛は? 取り返したんじゃあ……」  男の指から逃れるように、首はぶるっと震えた。痙攣したかと思うと、ゴボゴボと細長い棒を吐き出す。この小さな頭蓋のどこにおさめてあったのかと疑う、細く華奢だがじゅうぶんに長い横笛だ。水草がからまっている。  ――……やはり、あいつ自身の喉の奥におさめてあった。あいつめ、村の連中に、神ぶってお告げでもするつもりだったか。  ああ、とまだ苦しげな様子で男は体を起こし、つまみあげる。水草をとりのぞくと、骨から削り出したような、節のある笛だ。 「清めが必要なんだな」  ――……急げば、約束どおり生贄をくれてやるのに間に合うかもしれない。  平坦な口調に、男は惑わされなかった。 「生贄無しで、奪い返すつもりで潜ったんじゃあなかったのか」  首の白い頬に、睫毛の影が深く落ちる。  ――……気が変わった。何度滝登りをしても雌ゆえ天にのぼれないなど、恣意的な法に縛られる鬱屈は……ゆがませる。  そこでようやく男は辺りを見回し、滝の上ではなく、滝壺からさほど離れていないところに横たえられていたことに気付く。  自身が納得することを優先させる過ちは犯さず、男は常に隠し持っている短刀を取り出した。腕を切り裂き噴き出す血で笛を洗う。  たちまち灰白い姿をあらわす笛の、空洞にもさらに血を流し込んでから、男は美しい首を抱えあげた。開いたくちびるに、血の滴る笛をのみこませていく。  変化は、速やかだった。  黒髪が炎のように逆立つ。天上の、管楽の調べがあたりに満ちて、音は明確な方向性をもって滝の上を目指した。  水のなだれ落ちるちょうどその場所、星空を背景に、灯火と揺れる舟の舳先が突き出してくる。  失血で暗くなりがちな男の目にも、舟から籠が投げ出されるのは見えた。  中には、これから生まれようとする双生児のように逆さまに抱き合ったふたり……と、瞬きする間に、それはふたりぶんの体積はありそうな、ひとりの男の姿に変わる。  真っ逆さまに滝壺へと落ちていく男の、なにが起こったか理解できないらしい目と、岸辺で生首を抱いた男は一瞬目があった。 「……達者で。かわいがってもらえるといいな」  抑揚なく呟きながらひらひらと手を振る。その腕の血はもう止まりかけていた。  水の落ちる音に、異物の落ちる音が混ざり、すぐにあたりは変わらない滝の音で満たされる。 「本人しだいで、かわいがってもらえるだろう。滝壺の底に、あの盗賊たちがいた。ほかに若い男がいて、あいつの住処を掃除させているのが見えた」  ぽかんとしたまま生首の語るのを聞いていた男は、ふと首を傾げた。 「おまえ、物理法則に反することはできないとか言ってなかったか?」 「だから、等式が成り立ったので、交換したまでだ――だがあいつの母親の思念が強すぎた。女の方で、帳尻合わせが必要だったがな」  男とも女ともつかない、両性の美しさを兼ね備えた声が皮肉そうに言った。  目を瞬かせた男は、一呼吸置いて、泣き顔に見紛うほど大きく相好を崩す。 「ああ……いつ以来だろう……おまえのその声を、この耳で聞くのは」  首はすまして答えない。ふせた瞼に男はくちびるを押しあて、祈りの古代語を唱える。それからパッと顔を上げ、 「等価交換は物理か?」 「思念が物理ではないとでも?」  男は口を閉じた。すぐに、目元がゆるみ、頬がゆるみ、唇がゆるむ。なにもかも、一切が、声を取り戻した首の前ではどうでも良いと全身が語っていた。 「……次はどこへ行けばいい? おまえのどこを取り戻しにいこうか」 「何を取り戻そうが、おまえのものにはならないぞ」  目が糸のようになる笑い方で男は首を振る。 「そんなことは問題じゃない。俺はおまえのものだ」 「吾は、おまえのものにならない――」  睦言を聞くように、愛しい首の声を聞いていた男は、喉笛を失っていたあいだに使われていた、皮膚を打つ声をしかし聞き逃しはしなかった。  ――……まだだ。まだ、ならない……。  瞬きする間の逡巡の後、男は舌を焼かれるのもかまわず首を抱きかかえ、そのくちびるを貪った。  
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