蕎麦屋

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蕎麦屋

 出立の支度を整え家を出たときには、もう夕暮れだった。姉が管理している金の在り処を探すのに、家中を引っ掻き回さなければならなかったのだ。  鍵のかかっている戸棚は、隠してある常備菜や干魚、ジウが保存用に握り飯にしておいたのをとっくに昨日のうちに見つけ、きれいに腹の中へと片付けてある。もう一度同じ場所を探しても、食い物はもちろん一銭も見つからない。腹も空いてイライラしてきたので、母のお供えが隠してあるのではと位牌台をひっくり返したところで、ようやく金を見つけたのだった。  母の好物だったおはぎもそこには隠してあって、これも生前はひとつ残らず分け与えてくれた母の思いだろうと、ありがたく全部いただいた。  おかげでムロカは機嫌が良い。夏の夕暮れは涼しく、村のはずれまで足取りも軽く歩いていたが、蕎麦屋ののぼりがはためているのを見て、顎に手をあて考えた。  今は空腹ではない。とはいえ、これから町まで何時間も歩くことになる。と思えば、やはり蕎麦屋に立ち寄るのが得策だろう。女亭主は喜んで弁当を包んでくれるに違いない。  蕎麦屋は、滝を緩やかに迂回して町まで下りていく街道と、滝のすぐ脇を降りる高巻きの道へ通じる草木深い道が合流するところにある。高巻きの道は、慣れた者ならそれほど難所というほどでもないので、沢登りを楽しむ者や、先を急ぐ旅人がよく使っていた。  風にのって滝の音が聞こえる。打ち水のあとも涼しく、まだ薄明るい夕暮れのなか、外の長椅子にかけて名物の蕎麦をすすった。田舎蕎麦に、昔ながらの味噌をといたタレだ。腹が減っているときなら肉蕎麦も絶品だ。  ムロカは舌鼓を打って、天ぷらを追加した。  蕎麦屋の提灯に火が灯されるのを横目に、ムロカは嘆息をついた。こんなにゆったりした食事は、姉がいてはできないことだ。箸の上げ下ろしから器を持つか持たないかの作法だけでなく、食べ方が子どものようだと言いがかりをつけてきて、いちいちうるさかった。  小遣いでもそうだ。ムロカはもう三十路になろうというのに、親の遺産は姉がすべて管理していたから自由に使える金もなく、些細なことでもやれ贅沢だ無駄遣いだとうるさかった。  姉に言われるほどムロカは贅沢者ではない。オリザ酒がいくらほどするのか分からない、とんでもなく高額であるといけないから節約しておいたほうがよいだろうと、いま頼んだ天ぷらも、贅沢をいわず海苔と芝海老で我慢している。  ついでに燗酒をもう一合追加で注文すると、蕎麦屋の女亭主が酒器と蚊取り線香をもって出てきて、卓に置いた。たいして暗くもないのに提灯の明かりを頼りにするように首をかしげ、不躾に顔をのぞきこんでくる。 「――あらっ、もしやと思ったけど、やっぱりムロカじゃないか。いったい何年ぶりだい? 兵役から戻ってすぐに、騒ぎを起こして追い出されたって噂だったよ。それとも、これから追い出されて村を出ていくところかい」  失礼な冗談を言う女亭主に、大年増のくせに俺をからかって気を引きたいのかとムロカは苦笑いした。だが肩をすぼめて、 「騒ぎを起こしたというのは、まあ本当だけど。寝惚けた村の連中に、一発食らわしてやったんだ」  正直に言うと、女亭主は話の続きを聞こうというのか、ふうんとうなずき斜交いに腰を下ろした。いくらか良い気分になって、ムロカは長老衆に聞かせた演説をかいつまんで語る。  兵役での収穫は、村の外の世界がいかに広く素晴らしく、村がいかに古臭い因習に囚われ愚かな迷信を信じ続けているのかを知ったことだった。豊かな町ではエレキが荷車を動かし土木工事をしているという時代に、村ではいまだに、川の神を信奉し、決まった年ごとに生贄を捧げているのだ。 「だから僕は言ったんだ。でも長老衆はまったく聞きもしない。川の神なんて奉って、せっせと祠なんか掃除して……」  嫌なことを思い出したように、ムロカは歯にはさまった芝海老のしっぽをぷっと地面に吐いた。 「長老衆は、とにかく真実を認めたくなくて、唯一真実に気づいている僕を黙らせたくて仕方ないんだな。知ってたかい? これまでの生贄は皆、村から遠くはなれた土地で生きているんだ。そんなことが皆に知れては都合が悪い。生贄になった娘たちが、全然川の神に食われたりなんかしないで助かってるのに、村に帰らなかったのは、そんなことをしたら村の連中に、そうさ、川の神の怒りをおそれる古臭い連中に、今度は簀巻きにされて川に投げ込まれるに決まってるからね。長老衆が認めたくない真実は、こういうわけさ」 「……気の毒な娘さんたちが全員生きてるって、なんでまたそんなことが言えるんだい」  無知を指摘されたのが居心地悪いのか、真実にショックを受けているのか、女亭主は前掛けのすそを指先で揉みながら目をそらしていた。  ムロカは情けなくも悲しくなる。分かってはいたが、やはり村の者たちの目は節穴だ。  ここの女亭主は母親が生前親しかった仲だから、辛抱強く微笑んで言った。 「贄籠は、漁具の形をそのまま大きく作ったものだとは誰でも知っているだろう? 漁具のてっぺんには、魚が入れるように穴があいているものだ。僕は今日この目で見てきたから間違いない。それを模して作った贄籠にも、ちゃあんと穴があいてた」 「そりゃあまあ、知ってるけどねえ、でも……」  前掛けをいじりながら女亭主が眉をひそめる。おのれの愚かさを恥じながら認めることができないのだろう、姉のようになにか意味の分からないことをぶつぶつと言ってきたので、ムロカは肩をすくめて聞き流した。 「死にたがりでもなければ、祭りの仕舞いに舟で川に流されてから滝に落ちるまでの間に、さっさと籠から出てくるに決まってるじゃないか。流れもたいして早くない。いや、そりゃあ川の神を本気で信じて、死の恐怖よりも川の神の怒りとやらを恐れて、そのまま流されていったのもいただろうけど」  ムロカは笑いながらカラになった猪口を差し上げたが、女亭主は酒器を脇へと置いてしまった。仕方なく手酌しながら続ける。 「長老衆は、頑固だったよ。なかなか自分たちが間違っているとは認めなかった。でも、とうとう、次の生贄が無事に戻ってきたら、こんな因習はこれでもう最後にする、と、こう、僕に約束したんだ」  その時の長老衆の顔真似をして、ムロカは女亭主相手に凄んでみせた。それから、約束の条件を飲む、とムロカが宣言したときの長老衆の驚きようを思い出し、喉を鳴らして笑う。  それは生贄が、清めの儀式に入る前日のことだった。すでに決まっていたハヤから、ムロカの姉であるジウに変えるという条件だったのだ。  生贄は川の神に捧げられると信じている長老衆は、まさかムロカが承知するとは考えもしなかったのだろう。ムロカとの論戦に、長老衆は皆疲れて投げやりになっての提案であるようなそぶりをしていたが、どうせそんな条件をのむはずがないと高をくくっていたに違いない。  ムロカは笑い返してやった。無事に戻ってくるに決まっているのだ。姉だろうが母だろうが、生贄に差し出すことをためらうはずがない。 「じゃあ、ハヤが急に生贄のお役目を解かれて、祝言もなしに嫁いだって話は本当だったのね」  女亭主が眉間に皺を寄せて言うのは、噂好きの顔を隠しているつもりだろうか。深刻そうにして、横に座ってムロカの膝に手を置きそうな様子だ。ムロカは年増は趣味ではないので、そっと離れるように尻をずらした。 「ハヤが……ハヤが嫁いだのは、ああ、そうだなあ。本当だ」 (かわいそうに……僕からの求婚を待ち続けたばっかりに)  姐さん女房をもらうことに逡巡しているうち、ムロカは兵役が決まり、戻ってきたらきたで、己の使命に目覚め、村の改革に奔走し、気づけばハヤに生贄の白羽の矢が立っていたのだ。  鳶色の長い髪をしたハヤは、美しかった。明るく、姉と正反対に活発なところは少々いただけなかったが、嫁にしてやればきっとムロカに感謝して、しおらしくなったはずだ。  ムロカが承諾し、姉が生贄にと決まったとき、すぐに声をかければよかった。さすがに、あまり急すぎては、まるで妻に娶るために姉を差し出したと邪推されるかとためらったのがいけなかった。 (だから祭りのあと、姉さんが無事な姿を村中に見せて、その場で……と考えていたのに)  それは最高の舞台のはずだった。  誰もがムロカの言葉が正しかったことに気づき、これまでの非礼を地に頭をこすりつけて詫びる中、うっとりと見つめているハヤに求婚してやる目論見だったのだ。  結局、ハヤは自身にそんな輝かしい未来が待ち受けていたことも知らないまま、遠縁の家に嫁いでいった。 「急にハヤからジウに……という噂は、ここへも聞こえてはきてたのよ。でも、まさかって思うじゃない? 二人は仲が良かったし、ハヤはあのとおり丈夫な女だけど、ジウはねえ……そんなだから、お役目を解いてもらうために無理矢理に嫁ぎ先を見つけて、ジウを身代わりになんてことは、ちょっとないだろうと思ってたんだよ。そうかい、ジウが生贄のお役目を仰せつかることになったのは、あんたが噛んでたんだね……」  女亭主は途中から、考え込むように呟き始めた。ムロカがそこにいるのも忘れた様子で宙を見、なにやら眉間の皺をいっそう深くしている。  その横顔が、死んだ母親を思わせることにムロカはギョッとして、残りの酒を飲み干した。代金の釣りをもらって退散することにする。袂から出した小銭を卓に置いた音で、我に返ったように女亭主が袖をぐいと掴んだ。 「ちょっと、いやだね、財布も持ってないのかい! 小銭をそんな、袂でジャラつかせて歩くもんじゃないよ」  母親とも姉とも違う調子の叱責に、ムロカは咄嗟に、子どものようにへどもどしてしまった。 「う、うるさいなあ、これでいいんだよ。知らないだろうけど、これが、都会ではクールってやつなんだよ」  家中探して見つけた小銭を、無造作に袂に入れてきたものだから、確かに歩くたびジャラジャラとうるさかった。しかし兵役のとき、都会のことを教えてくれた仲間が言っていた。クールな男は財布を持たないものだと。   女亭主はちょっとぽかんとしてから、クスクス笑った。 「待ってなさい、あんたのお母さんには息子をよろしく頼むってしょっちゅう言われてたのよ。いくらやっとできた男の子だからって甘やかしすぎだって、あたしは口酸っぱくして言ったもんで……」  店の奥に一度引っ込むと、何やら洒落た色使いの巾着袋を持ってきた。 「これはね、あんたのお母さんからもらったもんだけど、あんまり良い品なんでつい、もったいなくって使わずしまっといたのよ。こうしてあんたが使うことになるなんて、大切にしまっておいて本当に良かった」  ムロカは、支給品の軍服のポケットが小銭でパンパンになるたび、親切に預かってくれた都会生まれの友人たちのことを思い出した。彼らの好意を無駄にするようで忍びないが、村から出たこともない女亭主には、クールといってもなんのことだか分かるまい。それに、これからの道中に、重たく揺れる袂は確かに邪魔だ。  そこでムロカは鷹揚に頷いて、押し付けられた巾着袋へ小銭を大人しくおさめることにした。 「あらあらまあ、ムロカ、あんたってのは本当に……」  巾着袋を無造作に懐に入れようとしたところで、女亭主が奪い取り、帯の間に挟まるようグイグイと押し込んでくる。母親が子供の身なりを整えてでもやるようなやりかただ。 「あたしは娘しかいないから分からないけど、なるほどねえ、息子ってのはいつまでも赤ちゃんみたいで、手がかかるのが可愛いって……あんたのお母さんがいつも言ってたもんねえ……」  これから高巻きの道を通って滝を下りるのだというと、足元が滑るからよせだの慎重にだの、うんざりするほど口うるさく言われ、それから売り物のいなり寿司をいくつか包んで持たされた。 「本当に気をつけるんだよ。祠の掃除をしてた青年衆のひとりが、滝壺に落ちて戻らなかったって話、あんただって知ってるだろう……」  見送る女亭主が最後に口にした言葉に産毛が逆立ち、ムロカは聞こえないふりでずんずん歩いた。  祭りまで、今日をいれて三日あるとはいえ、時間をつぶしすぎたかもしれない。もう残光ばかりの太陽を手かざしして眺めてから、着物の裾をからげて走り出す。  断りなく嫁いでいったハヤの面影が、ちらりと胸の底へわだかまっているのを感じたが、走れば夕方の風は涼しく、胸中もたちまち爽やかだ。  青草を蹴散らし、暗い木立を抜けて滝の上へたどり着く。  飛沫を受けながら高巻きの道を見下ろす位置に立つと、滝の音そのものが粒となってぶつかってくるようだ。  目的の町が一望できた。おう、と思わず声が漏れる。願いの実で町が潤っているとは聞いていたが、想像以上だ。  空はまだ薄い青灰色と太陽の朱が混ざりせめぎあっているが、町にはこれから夜空へ昇る星かと見まごうほど、灯がともっている。エレキが走っているのだろう。背の高い建物がいくつも伸び上がり、砂糖菓子のようにキラめいていた。 「すごい……」  ムロカの村も、これからはきっとあんなふうに輝くのだ。発展する村、その第一の貢献者としてムロカの名前は長く語り継がれるだろう。これはその第一歩だ。  大きく深呼吸する。  ムロカは、蕎麦屋でどれほど酒を飲んだか覚えていなかった。覚えていたとして、それが役に立ったかどうかは分からない。 「……あっ」  無造作に踏み出した足が濡れた地面にぬるりと滑り、振り回した手は宙を掴む。  ゴロゴロと転がり落ちる音は、滝の音にまぎれて誰にも届かない。
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