二人

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二人

 濡れた草と、松脂の燃える匂いがする。  意識を失う直前には全身に覆いかぶさるようだった滝の音が、奇妙に遠い。  きっと水底に沈んでいるからだろうと、ぼんやりハヤは思った。  流された舟を追って川へ入り、贄籠のなかへ身をねじこんだ。滝壺へと落ちる寸前、もう二度と離れまいと、ジウの細い脚を抱きしめた。  そのしなやかな感触が、腕の中にない。  ハヤは跳ね起きた。  驚くほど近くから二羽の小鳥が飛び立つ。無意識にその飛んでいく先を見送って、太陽の眩しさに手をかざした。眉間にしわを寄せ、細めた目の先に、花のような姿を見つける。  摘み取られた草花の、哀れを誘う様子にハヤは全身から血の気が引くのを感じた。 (まさか……まさかそんな!)  親兄弟が願いとともに言ったように、自分は、自分だけは助かってしまったとでもいうのだろうか。愛しいひとを救うことも、ともにいくこともかなわず。  半ば這い、半ば転がるようにして、やさしくよこたわる体に駆け寄った。  いつからここにこうしていたのか、触れた着物は太陽にあたためられ、乾いている。ハヤの着物も同様だ。動くたびあちこちから乾いた泥がパラパラ落ちた。 「ああ――ジウ!」  そんなことよりも、何よりも、大切なことを確かめると、ハヤは泣き伏した。  ひたいを押し付けた胸は、静かに上下している。  それだけで、ほかのことはどうでもよかった。  だから、あれから何が起こったのか、どれほど時間が経ったのか、ここは本当に生まれ育った村の川辺で、あの世のそれであったりはしないのか、しばらくは考えもせず、ジウが生きている証を一心に言祝いだ。  ようやく落ち着いてきてから気が付いたのは、ジウの亜麻色の髪のことだった。  長く美しい髪は、こうして横たわっていれば、いくらかは草のうえに乱れ広がっていてもおかしくない。着物の襟首に押し込んでいるのかと思えないでもなかったが、次にはハヤ自身のことに気付いた。  うなじに手をやる。そこにあるはずの、長く絡む鳶色の髪束がない。ぶつりと切り落とされた毛先がざらりと手にふれる。  口を開け目を瞬かせていると、ジウが小さくうめいた。ゆっくりとまぶたを押し上げ、まぶしそうにまた閉じる。首を左右に揺らめかせるのを、ハヤはまるで朝顔がひらくのを見守る思いで見つめ、見つめ続けていたかったが、それほどおとなしく待っていられる性分ではない。頭を動かしたとき、同じように襟足で髪が断ち切られているのが見えたのだ。 「ジウ! 髪が――あなたの髪が……!」  大きな声で完全に目覚めたらしいジウが、頭のそばで膝をついて覗き込んでいるハヤを見上げる。じれったそうに抱き起こして、短くなってしまった髪に手をやると、ジウはされるがままになりながら、ふわりと笑った。 「ハヤ……これは、夢? それとも……」  それから二人は、何が起きたのか、膝をつきあわせて話し合ったが、お互いに覚えているのは、滝壺へと舟が落ちていく寸前までだ。なにか光るものを見たとか、川の神様らしい声を聞いたとか、それらしいことも何もない。  ムロカが岸で何もせず、ただ姉を罵っていたことについては、ハヤは話さなかった。ジウが胸を痛めるだろうと考えたのだ。  なにも分からないということだけが分かって、二人とも、涼しくなった襟足を撫でて顔を見合わせる。唐突に、二人同時に腹の笛が鳴った。  互いに頬を赤らめたり肩をすぼめたりしながら腹のあたりをおさえ、その手を、どちらからともなく差し伸べる。  支え合うように立ち上がり、手を取り合い、川の、水の流れてくる方へ顔を向けた。  このまま下流へ下ることも、川からはなれていくこともできる。日差しはあたたかい。腹の笛が二人をせかすようにまた鳴った。 「まずは、トセさんのところへ行きましょう」  村の家族や長老衆たちの顔が頭の隅をよぎったが、ずっと隅のほうへ追いやって、刻んだ葱と肉の脂の匂いを思い出す。 「甘辛いおつゆの肉そばを、二杯ね」 「私も」  はにかんで言うジウを、ハヤはまじまじと見てから、顔いっぱいに微笑む。 「きっと驚くわ」 「驚いてもらいましょうよ」  二人は、歩き出した。   end
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