ムロカ

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ムロカ

 ムロカは気を失っていた。  まぶたの向こうが白々と明るく、朝の気配と、湿った緑の濃い匂い。いったい何故露天で横たわっているのかと、仰向けに寝転んだまましばし考える。  ついで、滝の音に気付き、体のあちこちが痛み、ようやく、高巻の道をとおって滝を下ろうとしたのを、転げ落ちたのだと思い出した。その前に蕎麦屋で酒を飲んだことも思い出し、自分がそこそこ大金を持っていたことにハッとなって袂をさぐる。 「無い! 無い!」  道中に袂でジャラジャラと小気味良い音を立てていた金は一銭残らず消え失せて、潰れたいなり寿司の包みのほかは、薄汚れた紙切れが一枚入っているだけだ。ムロカは腹立ち紛れに紙切れを、近くの滝壺目掛けて丸めて放った。  紙屑を力一杯投げたとき、腹のあたりに何かが挟まっているのに気づく。探ってみると、帯の間に巾着袋が、しっかりと挟み込んであった。 「ああ――」  安堵のあまり、その場に座り込む。自分の用心深さに満足の吐息をもらした。 「そうそう――出掛けに思いついて、母さんの形見の巾着袋に入れたんだったな」  気が抜けると急に空腹を感じて、潰れたいなり寿司を一息に平らげる。これを持たせた蕎麦屋の女亭主が、財布くらい持つようにと差し出がましいことを言ってきたのを思い出した。  兵役のときに親しくなった連中には、財布を持つのは野暮だという者もいたが、きっと大金を持ち歩く習慣がないのだろう。都会風の彼らにはいろいろと教わったが、すべて正しいというものでもない。蕎麦屋の女亭主に言われるまでもなく、こういう事態も想定して、金は巾着袋に入れてきたのだ。  得意な気分になって立ち上がり、口元を拭い、着物の泥を払った。  足踏みしてみる。幸い脚は痛めていないようだ。滝壺から下流の町へと水の流れる先へ顔を向ければ、木立の上へも、ひときわ高い建物がそびえているのが遠くにのぞく。  滝の上から眺めたときは、星をまぶしたように輝いて見えたものだが、今は日がのぼり、朝日を浴びて巨人がいたずらに立てた積み木のようだ。  これからどんどん栄えていくのであろう夜明けの町の様子に、ムロカは自身の村の未来を重ね合わせ目を細める。  胸をふくらませ、それからふと思い立ち、浅瀬になっているところで顔を洗った。髪も濡らして手櫛をとおし、着物の泥は、目立ったものは落としたものの、あとは諦めひとり頷く。 「まずは……ええと、オリザ酒を手にいれなければな」  滝壺を肩越しに振り返り、滝の上を見上げる。転がり落ちる途中、あちこち枝に引っ掛けたおかげで、擦り傷はできても落下の衝撃はずいぶんやわらげたものらしい。これがもし、滝壺に落ちていたら……。  ムロカは何故とも知らず身震いした。  川の神を祀る祠を掃除していた青年衆のひとりに出くわしたのは、いつのことだったろう。何やら言いがかりをつけられ、ムロカはただ本当のことを言っただけなのに、もみあいになって、相手の鼻面に手があたった。手が痛かったのを覚えているから、歯にもあたったのかもしれない。青年が手を振り回し、大きくのけぞる姿がぼんやり目に浮かぶ。  回想はそこで終わり、ムロカはまたぶるっと震えてから、滝壺から離れるように歩き出した。  あたりはまだ、草むらや木立で見通しが悪い。見えないぬかるみに足をとられてもいけないからと気をつけていたつもりだが、緩やかに傾斜しているせいか、足は徐々に早まり、いつの間にか逃げ出すように走っていた。 「あっ」  走り出してからいくらも行かないうちに、木の根方のこんもり盛り上がったものに蹴躓いて転がった。転がりながら、足にあたった感触から、動物か何かだと察する。あるいは野宿の無頼者かもしれない。  怒気をはらんだうめき声を聞いた気がして、ムロカは転がる勢いを使って素早く立ち上がり、一言も発さず町へと駆けた。  振り向かなかった。
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