オリザ酒

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オリザ酒

 ムロカが目覚める前のことだ。  夜明け近い時刻だが、滝壺のあたりはまだ薄青い闇がただよっている。  岸辺が大きく窪んで流れも淀んだあたり、水際に座って水面になにか垂らしているのは、独り言の多いあの男だ。釣りでもしているようだが、水面を見つめる表情は険しい。  差し伸ばした手からは黒く輝く糸状のものが垂れて、先は淵の中央へと伸びていた。 「おい」  そっと手元へ黒い糸の束を引く。束の先は、淵の真ん中へ錨でもおろしたように動かない。 「おい、もう、戻ってこい……」  胡坐座を崩して、じりじりと川面に寄り、水の淀みを覗き込む。  不意に、小さな爆発音がした。黒い束が引き込まれていたあたりの水面が底から砕け、水蒸気が昇る。  あたりに、何事かとのぞきこむ姿はない。ただ男が、逞しい体躯に似合わず情けない悲鳴を上げた。  悲鳴は、爆発のためではなく、手元に戻ってきた愛しい何かのためであったらしい。空からずぶぬれの毬のようなものが落ちてきて、男の胸に飛び込む。  川へと伸ばしていた手には今や濡れた長い黒髪が絡まり、抱きとめた毬にもそれは絡んでいた。 「まったく――こんな思いをして待っているなら、一緒に潜ったほうがマシだ!」  男が叫ぶと、なにかを引っ掻く耳障りな音がする。それは不思議に楽の音のような抑揚があった。毬に張り付く髪をかきわけながら、男が叱られたようにしおらしく呟く。 「そりゃあ神族同士の交渉に、俺が役に立たないことはわきまえているさ。それでもだな……んん? 神族じゃないのか? だって古い文献には、滝を登ればと……ああ、だからおまえはずっと川の主と呼んでたのか」  毬に見えたものからしゅうしゅうと湯が沸くような音がして、捧げ持っている男の手の中で湯気が立つ。濡れた髪が乾いていくらしく、男は片手でさらりと撫でた。 「ふん、上流の村で流している生贄じゃあ足りないってことか……ずいぶん大喰らいだな」  男が毬を腕に抱いてから、削りかけの笛を無理矢理鳴らしているような音が、低く、通奏低音のように続いている。思案気に、髪の生えた不気味な毬を愛おしそうに撫でていた男は、小さく頷きながら、 「……そら、やっぱり精気が足りないじゃないか。だから、もっと、うんとたくさん舐めてやろうと言ったのに」  口を尖らせた途端、まだ濡れている髪が、鞭のようにしなり男の額をピシッと打った。 「だって……っ」  おもちゃを買ってくれと駄々をこねる子どものように、毬を抱きしめ体を揺する。それなりの図体をした男がする仕草としては、見る者によっては母性をくすぐるものだったかもしれない。その、童子のイヤイヤ仕草が、ふと止まった。 「夢寐を……そういう術があるのは――ああ、読んで知っているだけだ。俺の? 本当か? 精気ならいくらでも注ぐぞ? ……そうだ、そのために居るからな」  喜色満面で始まった独り言の、終いはほろ苦くなる。笑うと細く糸になる目が、祈るように閉じた。 「俺も、望むところだ」  尊いものを推し戴くように毬を捧げ上げたとき、東の空が白くなった。  朝靄の乳色をした明るさのなか、その毬は皺くちゃで、赤子の頭ほどの大きさの、干した果実に似ている。  ふさふさと流れる黒髪が、果実などではない、禁断の呪物めいていて、恍惚として捧げ持つ男の姿は、醜い果実とともに不気味な神話の御伽絵(おとぎえ)になる。  男は皺のひとすじをそっと舌でなぞった。すぐに遠慮なく、えさにありついた犬のようにしゃぶりだす。  唾液でぬれたところから、ぽうと明るく光った。男が皺を甘噛みするように唇で挟んだまま、ふふと笑う。 「あれだけ長く川につかってたのに、まだオリザ酒の匂いがするな。甘い、良い匂いだ……。俺が迎えにいくまで、染み付くほどずいぶん喰らったらしい……」  またも男の頭を、ぴしりと黒髪の一房が打つ。男は果実を舐めしゃぶりながら上目遣いに、黒々と輝く黒髪が生き物の尾のようにうねるのを見ていた。 「……もっと早く見つけてやれなくて、悪かった」  意思を持って動くらしい黒髪は、男の詫びに応じることなくだらりと落ちた。無言になってしゃぶる間、男はまるで川の主の嫉妬を恐れるかのように、さりげなく水辺から遠ざかっていく。 「いや、それは無理だ」  男は独語を続けながら、内側から淡く光る皺の寄った果実を丹念に舐める。 「無理だ……言ったように、おまえを見初めたとき、おまえは男の体だった……いや、待て待て、俺に女の経験があるかどうかがいま関係あるか?」  やがて乾果は乳清に漬けて戻したように、ふっくらと乳色の肌を見せはじめた。先刻まで皺だった筋が、閉じたまぶたになり、通った鼻筋になり、色の淡く形の良いくちびるになる。  どこかからこの様子を見る絵師がいたなら、勇猛で名高いスサ神が、賢者の首を跳ねた神話の一幕のようだと筆をふるっただろう。  男は木の根方に腰をおろしてうずくまり、眠りの体勢になる。  その腕の中では、いまや不吉なほど美しい生首が、銀糸のまつげに縁取られたまぶたを重たげに押し開こうとしていた。
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