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 雑木林を抜けると川沿いには田畑が広がり、走り続けるうちに町の建物は色の違いもはっきり見分けられるほど近くなってくる。駆けどおしで来たが、ようやく町の入り口である木戸が見えてきた頃には、昼を過ぎていた。  木造ではない、小洒落た店のような小屋から顔を出した木戸番は、若い男だ。帳面をめくりながらお定まりの、訪問の目的を聞く。口をクチャクチャさせているのは噛みタバコだろうか。ムロカがなんと答えようか悩んでいる間に、プッと地面へつばを吐いた。ニッキの匂いが鼻をかすめる。 「ええと……オリザ酒を買いにきたんだ。それに、早く昼飯が食いたい」 「オリザ酒ぅ?」  頓狂な声をあげ、木戸番は肩を揺らしながらムロカを上から下まで眺めた。 「いやいや、隠すようなことじゃねえよ。願いの実に願掛けだろう? そのなりで、この町までわざわざ来て、酒買って飯食ってそれだけってのは……まあ、そうだとしても、お生憎様なんだけど」 「あ、ああ、そうだ、もちろん、その願掛けだ。……お生憎って?」  行けば分かる、と門を通しながら木戸番はあごでしゃくった。  すぐに願いの実の祠への道順を示す、簡易な地図の看板が立っており、斜めに「オリザ酒あり〼」の短冊が貼ってあった。  道の両脇は、みな二階建ての家や商店ばかりで、家と見えたものも、噂に聞くアパルトメン棟という最新型の長屋なのかもしれない。ムロカは田舎者とは思われたくない一心で、ぐっと前を見据えて歩いたが、視界の端に、どうしても色彩豊かな町の姿は映り込むのだ。  どこかから美味そうな揚げ物の匂い、そうかと思うと砂糖菓子のような、女の香水とも水菓子の匂いともつかない甘い匂いがしたりする。ぼうっとしながら歩くうち、手足をちゃんと左右交互に出しているのかすらあやしい気分になった。  すぐに、テカテカと真新しい塗料の光る、朱塗りの鳥居が見えてくる。存外小さいものだったが、周りに出店や幟が立ち、いかにも賑やかだ。  もっと近づくまで、その賑やかさが妙な具合であることにムロカは気づかなかった。  治安衛生組の青い制服が何人もいて、野次馬の群れを整理したり、神職姿の男とくたびれた顔をつきあわせて話し込んだりしている。野次馬はめいめいに青制服や周囲にいるものからなにか聞き出しているが、それで立ち去るでもなく、未練がましい顔を祠のほうへ振り向けていた。諦めた様子で離れていく姿もないではないが、どこからかまた野次馬はわいてきて、祠は妙な熱っぽさに囲まれているのだ。  ムロカはまず、黄色い縄で囲まれた祠をのぞいた。台座のうえに、歴史のありそうな古びた大きな盃がある。中の壁をぐるりと見回すと、参拝の作法を絵で描いたものが貼ってあり、それを見ると、どうも盃の上に、願いの実は据えられていたらしい。  らしいというのは、盃はからっぽだからだ。 「あらやだ、本当だ……」  母娘らしい二人連れが、ムロカとは反対側から覗き込んで顔をしかめる。 「せっかく来たのに……」 「罰当たりな盗賊がいたもんだねえ……」  チャポンと手にした竹筒をふった年増の方が、ムロカに目をとめ気安く話しかけてくる。 「あんたも願いの実に願掛け? 昨晩遅くに盗まれたってんだから、迷惑な話よねえ。まったくついてないわ」  ムロカが瞬きしていると、娘の方は肩をすくめながらあっさり背中を向け、 「ついてたら願掛けになんか来やしないじゃない。もういいから、そのお酒は持って帰って飲んじゃおうよ」  それがいいねと二人連れはさっさと向こうへ行ってしまった。  そちらから声をかけてきたのに何だとムッとしたが、年増の方は、娘の手前、もっと自分と親しくなろうなどという下心を恥じたのだろう。娘の方も、母親と男を取り合うのは破廉恥だと、慎み深く身をひいたものに違いない。  ムロカはもう一度祠へ目を転じる。開け放たれた観音開きの扉は、よく見れば穏当に開けたのではないことを示すように、南京錠をかける金具が歪んで木枠からぶら下がっていた。  どうやら願いの実を盗んでいった者がいるらしい。青制服たちは祠の周りはもう調べ尽くしたのか、神主や作務衣を着た男と話していて、こちらへは背を向けている。 (どうしたもんかな……)  姉のお使いは、願いの実への願掛けだ。実がないのだからそうと報告してもよいが、これまでの経験から、どうせ途中でお使いの中身を忘れたのだろうと疑われるに決まっている。それならいっそ、あの盃に形ばかりオリザ酒を注いで、願掛けはちゃんとやってきたと告げればいいのではないか。  そう考えて見直すと、まだ目にしたことのない、髪が生えているという噂の珍妙な石より、すぐそこにある色のあせた、いかにも古い盃のほうが、御利益がありそうに思えるのだ。  そうと決まれば酒を調達してこよう、と一旦出店のほうへ引き返しかけたが、はたと足をとめた。  姉の願い事は、何だったろうか。  お使いのときのように、書き記した紙があるかと袂や懐を探ったが、財布と、いなり寿司の飯粒が少し出てきたばかりだ。どうやら姉が書き忘れたのだろう。本当に仕方のない姉だとため息をつき、どうしたものかと腕組みをする。  すぐに、良い考えが思いついた。  忘れたのは姉の落ち度だが、どうせこれまでがそうだったように、ムロカが忘れたのだと決めつけられるに違いない。姉はいつもそうだ。  そうであれば、解決方法はひとつ。あの願掛けの盃を、村へ持って帰ればいい。  姉が直接、酒を注いで願掛けをすればいいのだ。簡単なことだ。  次は、酒を買いに行くのが先か、盃をもらうのが先かと迷った。見回すと、青制服も祠の管理人らしきものたちも忙しそうだ。ならば先に盃を手に入れて、これに注ぐ酒をくれと店でたずねるのが手っ取り早い。  よしと綱をまたいで、祠に踏み込む。祠はこじんまりしたもので、ただの一歩で台座に手が届く。盃は固定されていなかった。手にすると思いがけず軽くて、取り落しそうになり、どうにか胸へと抱きとった。  そのときだ。 「あっ、泥棒!」  誰かが叫ぶ。 「えっ、泥棒?」  ムロカは願いの実を盗んだ奴かとキョロキョロした。捕まえれば金一封が出そうなものだという思いと、下手に関わって怪我でもしたら馬鹿らしいという思いが交錯し、咄嗟に動けず首だけをめぐらす。  見ると、中年女がこちらを指差している。賊がいつの間に背後に忍び寄ったのかと、ムロカは慌てて横っ飛びに飛び退いた。 「逃げるぞ!」  膠着していた野次馬が動く。  わあっと吹き上げるような声がわいたかと思うと、ムロカは何者かに組み伏せられていた。さては賊が人質にとろうと掴みかかってきたかと、頭が真っ白になる。  賊はひとりではなく、何故か野次馬たちが、どしどしとムロカの上へ押しかぶさってきた。 「痛い! 苦しい!」  わけがわからないムロカの胸と玉砂利の間で、古ぼけた盃がみしみし音を立てる。   
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