贄籠(にえかご)

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贄籠(にえかご)

 よけそこねて、熟れた桃の実はムロカの鼻の頭で潰れ、勢いのまま眉間を転がり頭髪を汚し、背後に落ちてべしゃりと音を立てる。  ムロカはのけぞり二、三歩よろけてから尻もちをついた。ねっとりと甘い汁が目に沁みて、顔の穴という穴に桃の香りが射し込むようだ。愛嬌のある形の良い鼻を、着物の袖でぬぐって憤然と声を上げた。 「ど、ど、どうして……っ」  尻の下の玉砂利は、夏の太陽にさらされぬくもっている。この四阿(あずまや)の、四方の壁は切り落としてきたばかりの常緑樹の枝を組んだもので、屋根は無く、雨樋のようなものが交差しているだけだ。昼を過ぎた夏の日差しが、白い玉砂利をいっそう白く、緑の匂いをいっそう濃くするようだった。  白い玉砂利が正円形に敷かれているのは、ここが生贄を清めるためにしつらえられた神聖な場所であるしるしだ。入り口は、枝木の代わりに長い紙垂(しで)が垂れている。それを暖簾のようにかきわけ入ってくるときムロカは、町ではもう、エレキで勝手に開く扉もあると聞くのにと、苦々しく笑ったものだ。  そのムロカが差し入れた桃を、頬張りもせず、いきなり投げつけてきたのは姉のジウである。  四阿の中央に鎮座するのは、川で魚を捕る漁具の形をそのままに、ひとをおさめる大きさに編んだ贄籠(にえかご)だ。その網目から、腕を突き出し至近距離から弟に桃をぶつけたのだ。  細長い籠は、姉が振りかぶった動作の余韻でゆらゆら揺れている。柱から伸ばした綱で固定されているから、中の生贄が激しく暴れたとしても、倒れることはない。 「どうしてかしらね……」  籠の中から、姉が弱々しくつぶやいた。  村を貫いて流れる川の神への、姉は捧げものに決まったのだった。  清めの儀式、一日目の昼である。  漁具といっても魚にあわせていろいろあるが、これは丸い壺型ではなく、ひとが立って入るに合わせた、細くて長い筒状だ。上部の口には、柱の上から樋が渡され、清めの水が細く流れ落ちている。  生贄は、この細長い筒状の籠の中で立ったまま、三日三晩、身を清めるのだ。 「そうね……どうしてかしらね。わからないわ……ごめんね……」  籠の網目から突き出ていた腕がそろそろと引っ込み、細い声が詫びる。  ムロカは及び腰になりながら、姉の様子を網目ごしに眺めた。白い装束の肩に、濡れそぼった亜麻色の髪が垂れて、うなだれた姿は亡霊のようだ。  生贄は村の中で一番年嵩の、未婚の女と決まっている。姉は気力も体力も若さとともに失われている、三十路も半ばだ。同じ年で姉とは幼馴染の女がいたが、こちらは特別頑健で明朗闊達そのものというタイプである。相対的に、姉の方はおとなしくひ弱に見られがちだったが、それはあくまで幼馴染と比べてというだけだとムロカは知っている。  なにしろ父親が死んでからの姉は、ムロカのやることなすことやかましく口出ししてきて、優しい母がそばでオロオロしていて気の毒なほどだった。  その母も、昨年死んだ。  姉は母親がのりうつったかと思うほど物静かになったが、声が落ち着いたばかりで、あれこれ指図する口やかましさはかわりがなかった。  ムロカは改めて背筋を伸ばし、咳払いする。  姉には繰り返し言い聞かせたが、やはりこの村を救おうという使命感は、ムロカほどには強くないのだろう。  生贄といっても、川に流されたあとは籠から抜け出そうと思えば抜け出せることをムロカは知っていた。村の連中がそれを知らないのは、古い因習のせいで脳までカビくさくなっているからだろう。頭の中身には苔が生え、目は節穴なのだ。  穴だけに。  とムロカは上手いことを思いついた気分で贄籠の上部に目をやった。漁具と同じ形なのだから、そこには魚が入るようにぽっかり穴があいている。今は縦に固定されているから仕方がないが、川に流すときは舟に横倒しにするのだ。つまり、這い出ることは簡単だ。  ムロカが村のために考えているのは、姉を川の神などという旧式の、まやかしの存在に捧げることではない。生贄など無意味だと証明して見せ、長老衆をはじめ、村の連中の目を覚まさせてやるのだ。  数年前、この国に天からやってきた神竜族は、国主と盟約を結び、夢か魔法かといった素晴らしい技術を人々にもたらしている。  しかしその恩恵に浴するのは未だ中央の町ばかりで、ムロカの村へはエレキを運ぶ道すら通っていない。  それもこれも、古い神を祀るのをやめない長老衆のせいだ。その長老衆のやることなすことに疑問を持たない腑抜けた村の連中のせいだ。  すでに竜のエレキで未来型に生まれ変わった町の噂を、ムロカは聞いた。その町の出身者と、兵役の間に親しくなり、さまざまに様子を語ってもらい、貪るように聞いた。夢のような世界だった。  まさに夢のように、具体的な光景はムロカの頭のなかできらめく綿あめのごとくぼんやりしている。が、理想と使命感に燃えたムロカには、それでじゅうぶんだった。  三日後の祭りでは、川に流された姉は贄籠から難なく脱出し、ムロカとともに村へ帰還する。  そのときに浴びる歓呼の声が、ムロカの耳には聞こえる。 (画竜点睛を欠くのは、隣に、嫁がいないことだな……)  姉だけでなく、その幼馴染のハヤが、ムロカと手を取り合い、微笑みあっているはずだった。  もともとハヤが生贄に決まっていたが、姉が代わることになると、その日のうちに、親が遠縁の男へ嫁にやってしまったのだ。  ハヤはムロカの嫁になるはずだった。  しかし年下であるムロカに、自分から嫁にしてくれと言い出すのははばかられたのだろう。ムロカもまた、美しいが闊達すぎるハヤを娶ることにためらううち、兵役をつとめることになり村を離れた。戻ってきたらきたで、村にエレキを呼ぼうと長老衆を説得して回るのに忙しく、そうこうするうち次の生贄はハヤに決まってしまった。 (ひとこと、嫁にしてくれと言いさえすればよかったのに……バカだなあ……)  ……贄籠の中に、鳶色の髪を長く垂らしたハヤが立っている。白い装束はぐっしょり濡れて、ハヤのいつもの騒々しい快活さはなりを潜めて、両手を揉み絞りながら寒さに震えているのだ。  ムロカはおもむろに網目に手をかけ、力任せにバリバリと籠を破る。大きな目を見開いたハヤは、やがてはにかむように微笑んで、差し出したムロカの手をしとやかに取る…… 「……大丈夫?」  抑揚のない、ハヤらしくない暗い声に瞬きすれば、籠に閉じ込められているのは姉のほうだ。桃を投げつけ転ばせておいて何が大丈夫かと、ムロカは頬をふくらませる。 「困るよ、そんなんじゃ」  姉が眉をひそめて籠の中から見返してきた。贄籠は、荒く編まれているとはいえ、突き出した腕を大きく振るほどの隙間は無い。桃を投げたとき、割竹で傷つけたのだろう、今は引っ込めている白い腕に、血の筋が流れているのが見えた。  神聖な生贄というよりは、仕置を受けている罪人のようだ。弱々しく白い腕をさする姿が、ますます癪に障ってムロカは目をそらす。 「悪かったわ。せっかく持ってきてくれたのにね」 「別に。そこでハヤのところのおじさんに呼び止められたんだ。これを持っていけって渡されたから」  姉が、肺を病んでいるような、おかしな具合の笑い方をした。 「じゃ、あんた、ここへは手ぶらで来たのね……?」 「そりゃあそうだよ。姉さんが朝からいないせいで、僕は昼飯どころか朝飯だって食べてないんだ!」  家の中を探したが、生の穀物や野菜、調理前の保存食などがあるばかりで、とうてい食べられるものではなかった。空腹の機嫌の悪さを、村の古い迷信を断ち切りいずれはエレキを通すという高邁な目的を思うことで紛らしてきたが、食事を用意していかなかったことを詫びもしない姉の態度に、さすがに大きな声を出してしまった。 「朝からじゃなく、夜からよ」  どうでもいいことを指摘する姉に、ムロカは辛抱強くため息をこらえた。しかしこうしてひとをイライラさせるのは、いつもの姉の調子に戻ったということだと、良い方へ思いなおして長く息を吐く。 「姉さんには、元気でいてくれなくちゃ困るよ」  長老衆が考えを改めれば、この村も神龍族の恩恵を受けることになるだろう。ムロカはこの村が、川の下流の町々のように、夜もまばゆい街へと発展させる立役者となるのだ。  姉は、そのための大事な役目を担っているというのに、自覚がなさすぎる。  ムロカは、特に年上の女などからは愛嬌があって放っておけないといわれる顔をせいいっぱい凄ませて、鼻を指でおさえてチンと鳴らした。桃色をした鼻汁が飛んで草に落ちる。  村の連中にとっては神聖な場所であるかもしれない四阿だが、ムロカにしてみれば、川の神の怒りを生贄で鎮めるなどという馬鹿げた習慣を打ち砕く、まさにそのシンボルだ。敵陣に乗り込んできた思いで見回して、桃の入っていた籠を探すと、転がり出ていなかった無傷のひとつを手に取りがぶりと噛んだ。  桃は、生贄が口にして良い唯一の供物だという。  ハヤの父親に籠ごと押し付けられたときムロカは、もっと腹にたまるものがいいのに、やはり母親とは違い父親とは気の利かない生き物だとこっそり思ったものだ。これが朝から腹ぺこのムロカにではなく、生贄のジウにというのだから、ますます気が利かないと哀れみを誘われるほどだった。ムロカの母親が死んでからは姉が母親代わりであったことを、知っているはずなのに。  きっと母親がどういう生き物か知らないのだろう。家では尻に敷かれているに違いない。  そんなことを思い返しながら桃を咀嚼し、種をプッと吐き捨てる。それからちょっと考えて、そこらに転がった桃をひとつ拾い、贄籠の網目から突っ込んだ。 「三日後の祭りまでには、しゃんとしてくれないと困るよ。僕の方は……そうだな、村のはずれに、母さんが働いてた蕎麦屋があったろう。あそこで食わせてもらうよ」 「食わせてもらうって……ちゃんとお代を払うのよ」  ムロカは怪訝な顔で姉を見返した。白い装束と濡れた長い髪のせいで、けぶるような、籠にとらえられた幽霊のような様子だ。それが銭金の話を口にするのは、いつもの姉らしくはあるが、妙な感じがした。 「でも……」  説明したところで理解できるだろうか。姉はいつもこうだ。ムロカに説教する割に世間に疎い。  たかだか三日間くらい、女というものは他人だろうと世話してくれるものだ。特に蕎麦屋の女亭主は情に厚い女で、ムロカの母親とは、夫に先立たれた者どうしといって、ずいぶん面倒をみてくれたものだ。  姉は桃を受け取ろうとせず、なにか呟きながら装束の前をかきあわせて首を左右に振った。夏だというのに身を震わせているか弱さに、ムロカはとうとう大きなため息をついた。  今からこんな様子では、籠から這い出ることもままならないのではないか。川に流される儀式で、流されるまま流されたりしてしまうのではないか。  ムロカは籠の隙間からもっと深く腕を差し込み、桃を姉の首元にぐいと押しつけた。姉がまたなにか聞き取れない言葉を呟いて、しかし今度は受け取った。ひどく大儀そうに、黄色い皮に歯を立てる。 「……母様がね」 「うん?」 「みまかる前に、私の手をとって……母様は、私にあんたのことを、頼むって……言ったのよ」 「うん……? ああ、そうだね、そうだ、まあ、姉さんはとても」  とても、なんだというのか言葉が浮かばず、ムロカは口ごもった。母親が死んだあと、世話をしてくれた姉には感謝してはいるが、やはり母親がやってきたそのままのようにとはいかず、不便なことも多かったのだ。兵役で家から離れることがなかったら、我慢がならなくなっていたかもしれない。  ムロカが留守の間は、幼馴染のハヤと遊び呆けていたらしいし、村ではきっと、嫁き遅れ同士がと評判も良くなかったに違いない。  姉は手の中の桃を見たまま続ける。 「でも、私だってもう、限界だわ……もう限界」 「姉さん?」  思いつめた眼をして桃の果肉を見ていた姉は、突然意を決したように桃を貪った。それから、籠の中から挑みかかるようにムロカへ向き直る。 「ムロカ、これが姉さんの、最初で最後のお願いよ。川の、下流のほうの町で評判になってる願いの実のことは知ってるでしょう」 「願いの実?」 「行って、私の願いを伝えてほしいの。願掛けをしてほしいの」  願いの実。噂だけならムロカも耳にした。  それはちょうど神竜族がやってきたのと同時期に、下流の町で拾われた石だ。  黒々とした髪がひと房生えている、石というよりも、干した果物のようなのだという。皺の寄り方や触り心地がわずかに柔らかく、大きさは赤子の頭ほどの大きさだそうだ。  この石にオリザ酒を注ぎながら願い事を語りかけると、願いが叶うのだという。  天の庭から神聖な桃の実が落ちて下界で乾果になったものだともいわれ、石ではなくて、願いの実と呼ばれている。  噂が噂を呼び、実を祀った祠を訪れる参拝者も増え、おかげで祠をたてた町は潤い、エレキが通ってビルだのアパルトメン棟だのいうのがニョキニョキ建っているという。  後段の、エレキが通って……というのがなければ、ムロカはこれまた古い迷信の一種だろうと歯牙にもかけなかったかもしれない。  だが、見つかった時期から神竜族に由縁のある何かかもしれず、古いこの国の神などではなく、神龍族のもたらした恩恵のひとつとも考えられている。  気がそそられないでもなかったが、酒をかけながら願い事をとなえるというのが、いかにも古い迷信のたぐいがやりそうなことで、ムロカはまだ一度も行ってみたことがない。 「噂で聞いたの。ハヤが、お参りに行ったって。もちろん、ハヤに生贄の白羽の矢が立ったあとにね」 「へえ……」  姉の口からその名前を聞いて、ムロカは苦い顔をした。  長老衆が、ハヤの代わりにジウを生贄にと決めたあと、すぐに嫁がされたのは、生娘でなければ生贄にはできない、未婚の女でなければいけないからだ。万が一にも決定が覆されることのないようにとの目論見は分かるが、お転婆で評判の良くないハヤは、こんなことでもなければいずれは自分に嫁として押し付けられるはずだったのだ。  半ば覚悟していたムロカは、拍子抜けして、妙に面白くないのだ。 「でも、そんな願いなら必要ないだろう。姉さんは祭りのあとであの上の穴から出て、大手を振って村に戻ってくるんだ。ハヤにはそれから会いに行けばいい」  もう何度も言って聞かせていることだが、ムロカはけして苛立つそぶりを見せずに優しく繰り返した。川に流されるときは贄籠は舟に横倒しで乗せられる。だから容易に上の穴から出られると言っているのに、姉にはどうにもそれが理解できないらしい。  姉はまた聞き取りにくい声でなにか呟く。仕方なく、舟に乗せられたら這って籠から出ればいい、簡単なことだと繰り返し言い聞かせた。 「……もういいわ。祭りのあとで会いに行くとか、そんなことはあんただけが考えていればいい。私の願いはそんなことじゃない。ハヤにね……ハヤに、夢でいいから、祭りの前に、ひと目会いたいの」 「そんなことなら、僕がハヤを呼んでくるよ」  なにしろハヤが嫁いだ村は、姉の言う願いの実の祀られた祠のある町よりいくらか近い。帰りはおぶって連れてきたところで、祭りには余裕をもって間に合うだろう。 「だめよ!」  するどく姉が叫んで、籠の中から睨んできた。口やかましいといっても、小言をいうときでさえ声を荒げることがない姉の、珍しい剣幕にムロカは目をパチパチさせる。 「忘れたの? ハヤは、私が代わりに生贄になったって知らされてないのよ! こんなことになってるなんて知ったら、ハヤがどう思うか……! やっぱり自分が最初のとおり生贄になるなんて言い出したら……」 「どうも思わないし、そんなこと言うはずないよ。ハヤはなにしろ村のヒトだ。生贄になったら川の神に喰われて死ぬと信じているに決まってるんだもの。それに長老衆だって、やっぱり元のとおりハヤになんて言い出したりしない。だって、もう……ほら、ハヤは生贄になる資格はないし」  唇の端を歪めてムロカは言葉を濁す。嫁いだのだから、もう未通女ではないなどと、姉の前であからさまなことを言うのはさすがにはばかられた。  姉は、それもそうだと得心して虚脱したのだろうか、深くため息をつき、がっくり肩を落とした。清めの水で濡れた長い亜麻色の髪を重そうにかきあげながら、また小さく首を振った。 「そうじゃない……そういうことじゃないのよムロカ。いい? 私が生贄になっていることを、私はハヤには知られたくない。だから直接ではなく、夢でもいいから、いいえ、夢で、会いたいの。わかった? わかったら願いの実に、オリザ酒を捧げに行ってちょうだい」  それから水滴のしたたる自分の髪を軽くしぼって、ほろ苦く笑った。 「本当はハヤの髪の一房でも抱いていけたらと思ったけど、いくらなんでも贅沢ね」  ムロカもまたため息をつき、肩をすくめる。 「それで姉さんの気が済むなら、まあ、いいけど。金はどこ? 酒を買う金もいるし、腹が減ってるんだ。姉さんのせいで朝から何も食べてないんだよ。どこかで食事をしていきたい」  姉は腕の傷が痛むのか顔を歪めると、ひたいに手をあて、家の中の金の仕舞い場所を教えた。腕から流れていた血のあとは、途中から清めの水で薄められ、桃色の筋を描いている。  ムロカがきびすを返して四阿を後にしようとすると、背後から姉が、童子にお使いでも言いつけるように、復唱しなさい、と言った。ムロカは大儀そうに肩越しで、 「だから、位牌の置いてある……」 「そうじゃない! あたしのお願いよ!」  ええ……と眉をひそめて姉を振り返る。母親が死んでから特に、姉にはこうして子供扱いをされてきた。不快ではあったが、今はこうして贄籠に閉じ込められているものと言い争っても仕方がない。 「ええと、だから、ほら、……ハヤを、祭りの日の前に、ここへ呼んできて姉さんに会わせるんだろ?」  姉が瞬間、般若の形相になった。こうなるといかにムロカでもひるんでしまう。しかし姉はすぐにふっと表情をなくした。ムロカがくぐろうとしていた頭上の紙垂を指さす。 「それを一枚、破っておいで。姉さんが書いてあげる」  これには素直に従って、手近なものを破りとり、籠の隙間から手渡した。姉は腕からまだ流れている血を細い指にとり、願い事を書き付ける。 「なくしちゃだめよ」  受け取った紙片をムロカは渋々と袂へ仕舞う。  今度こそ出ていくとき、姉の細い声がわらべうたを歌っていた。ムロカも聞いたことがある、姉がハヤと一緒に、よく歌っていた歌だ。  歌うだけの元気があるなら大丈夫だろうとムロカは胸をなでおろす。  死んだ母も姉も、自分のことを心から大切に思ってくれていることはよく知っているが、時に可愛さ余ってというやつなのか、意地の悪いことをしてくるのが困りものだった。よりにもよってこんな肝心なときに、そんな悪い癖を発揮しなくてもと頭が痛い。  それから、オリザ酒というのはどこで買えるのだろう、その前にどこかで飯にありつきたいものだとぼんやり思った。
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