②香り男子

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「あー、腹いっぱいだー」  言いながら尚斗はソファにダイブする。すでに時間は二十四時を回っていた。 「じゃあ俺、さっさと入ってくるわ」 「おー、いってらー」  軽く手を振れば、「そこで寝んなよ」と釘を刺されるが、もう瞼が持ち上がりそうもない。それを彼も理解しているのか、「洗い物、明日ぜってーやれよな」と言ってから脱衣所のドアを閉めた。 「おー」と返事を一応したがきっと聞こえていないだろう。別にそれでもいい。  腹がいっぱいで、家の中の温度も寒くも暑くもない丁度よいもの。そして柔らかいソファの感触に、寝るなと言われたって無理な話だ。  水音が聞こえる前に、尚斗の意識はゆっくりと消えていった。  それからどのくらい時間が経っただろう。 「ん・・・・・・」  何か違和感を感じ、沈んでいた意識がまたゆっくり戻っていく。 (なんだ?)  シャンプーの香り。そして頬と唇に柔らかい何かが触れている。 「た、つ?」  目を開けずに口を動かせば、パッと触れていた何かが無くなった。その代わり、「おう、起きたか」という声が降ってくる。 「ここで寝るなって言っただろうが」 「えー、無理だろー」  まだ眠たいとぐずるようにソファの上で小さくなる。そして無意識に頬に触れている温かいものに縋るよう、手で掴んだ。 「お、おい」  それに焦るような辰己の声。しかし尚斗はそれにスリスリと頬擦りをし、「いーじゃねぇかー」と呟く。 「なんか、きもちー」 「・・・・・・・・・・・・」  ピクリと頬に触れているものが動く。だが気にせずにいれば、まるで顔を持ち上げるかのようにもう片方の頬も柔らかい何かに包まれた。 「じゃあこれは?」 「んー?」  そう聞かれ尚斗は眉を寄せるが、もう片方の頬にあるそれにも頬擦りをすれば勝手に笑顔が戻る。 「すっげーきもちー」  ふわふわと浮いているかのような気分に、尚斗はそのまままた意識が遠くなるのを感じるがそれを止める輩はいない。  そのまままた寝てしまおうとゆっくり呼吸をすれば、「ナオ」と掠れた声が聞こえた。それに返事をしたくとも、半分以上落ちている意識では唇を動かせない。 「ナオ・・・・・・尚斗・・・・・・」  コツンと額に何かが当る。それと同時にサラリとした感触に、気持ちいいとクツクツ喉で笑った――――のだが。 「くそったれがぁぁぁ!」  思い切り頭突きされた。 「いっでぇぇ!」  先程まで幸せな空間を漂っていたというのに、突然雷を打たれたかのように痛みが走った額を押さえて尚斗は飛び起きた。 「なにすんだてめぇ!」 「それはこっちの台詞だバカヤロウ!」  頭突きした本人も涙目になりながら自身の額をさする。 「俺の最強の理性に感謝しろ!」 「はぁ!? 意味わかんねーこと言ってんじゃねぇよ!」 「だーからお前はバカなんだよ!」  辰己は「おらそっち詰めろ」とこちらの身体を起こし、スペースを空けるように手で背中を押す。それに「なんだってんだよくそったれ」と毒を吐くも、彼はひと睨みしてから尚斗の隣にドサリと座った。 「で? 香り男子の仕事、どうすっか考えたか?」 「あー・・・・・・」  そういえば忘れていたと頭を掻く。それに大きく彼は溜息をついた。 「何が嫌なんだ? CMか?」 「いやー、んー、まー、そうかな」 「そうかなってどういうことだよ」 「えー・・・・・・と」  尚斗は視線を泳がせる。どう説明したものか。  別に仕事が嫌なわけではない。今やってるモデル業だって未だに有り得ないと思っているけれど、それでも嫌いじゃない。むしろ最近は楽しいと思えるようになっていた。  では一体何が引っかかっているのか。 「ナオはさ」  悩んでいる尚斗に辰己は点いていない真っ黒なテレビに視線を向けたまま言う。 「ひとりが苦手だよな」 「あ?」  彼の言葉にクエスチョンマークを浮かべた。すると顔はそのままにチラリと視線を寄こす。 「悪い意味じゃねぇよ。俺としては良い面だと思って言ってる」 「全然そんな感じしねーけど」 ジトリと睨めば、背もたれに寄り掛かり、そこに腕を乗せてこちらを見た。その顔はどこか優しくて、きっと自分以外に誰も見たことがないんだろうな、なんて見る度に思う。 「モデルを始めた頃、それぞれに写真を撮るって言われたら頑なに嫌がったよな」 「まぁ・・・・・・」 「別々の現場に行くのも嫌がる」 「それはお前もだろ」 「そりゃそうだろ」  当たり前に頷かれた。 「俺はナオ、お前と一緒にモデルやってんだ。お前が傍にいなきゃやってる意味もねーよ」 「お前もじゃねぇの?」と問われ、尚斗は「まぁ、そう、かも?」と返す。それに辰己は笑ってこちらの頭を拭いた時のようにグシャグシャと掻き混ぜた。 「んで、だ。今回の企画はA社とB社の戦争だ。いくら同じBoysつっても、俺たちもその戦争に巻き込まれてるってことよ。殴り合いとか喧嘩とか俺らもすっけど、それは仲間内の感覚だろ? この戦争はガチの勝負で敵同士なんだよ」 「・・・・・・・・・・・・」 「いつもみたいにA社を二人で、B社も二人でっつーことならきっと頷いてた筈だぜ?」 「まぁ、CMも不安っちゃ不安なんだろうけどよ」と続けた辰己はまだ優しい表情をしていて、見てられないとばかりに尚斗は首を背ける。 (ったく、ほんとこういうとこ腹立つ)  こちらのモヤモヤを簡単に暴いてしまう彼は流石相棒と言ったところか。 「確かに敵同士っつーのは俺だって嫌だけどよ、別に本物の喧嘩じゃねぇんだ。どんだけ睨み合ったって俺らは二人でひとりのモデル。喧嘩して相手が憎たらしく思えたって、一緒にいることは絶対だ。違うか?」 「・・・・・・違わない」 「だろ?」  唇を尖らせるこちらに、辰己は言った。 「やってみようぜ、香り男子。喧嘩男子がガチバトルかましたかと思えば、仲良く肩組んで撮影してるとか、面白いじゃねぇか」 「周りの虫への牽制にもなんだろ」と呟いたそれは勿論尚斗には届かない。 「安心しろよナオ。どんだけカメラの前でお前の敵になろうとも、俺は絶対お前から離れない」 「な、んかそれ、すっげぇハズいんだけど」  じわじわと頬が熱くなるのを感じるそれを、どう抑えたらいいのだろう。彼にだけは見られたくないと両手で顔を覆ったが、「ナーオ」と両腕を掴まれ、無理矢理開かれる。そして辰己は自身の方に引き寄せ、真っ赤になっている尚斗と向かい合わせになりながら笑った。 「でも安心したろ?」  その笑みは先程の優しいものと同じなのに、その瞳だけが違う。まるで捕食者のように輝くそれは魅入られるほど美しく、そして魂を取らんとする悪魔のようだ。 「べつ、に」  その瞳から目を逸らせないまま言えば、吐息の含んだ言葉が耳をくすぐる。 「俺は安心したぜ?」  だってよ。 「お前も俺と離れたくないって思ってくれてるってことだしな」 「~~~~っ!」  まるで睦言のようなそれに、ついに尚斗は羞恥の限界値を超えて。 ――――ゴン! 「いってぇぇぇぇぇ!」  思い切り額を額をぶつけた。 「別にてめぇがどこ行こうが俺には関係ねーよ! バーカバーカバーカ!」 「ちょっ、おい!」  ズキズキと痛む額を抑えながら立ち上がる。そして逃げるように自室まで走っていったが、「ナオ」と声を掛けられ、自室の前で止まった。  リビングから掛けられる声は遠いのに、一音も聞き漏らすまいと勝手に耳がそちらを意識する。 「香り男子、やるっつー答えでいいな?」 「・・・・・・・・・・・・」  その台詞にビクリと震える身体は一体何なのだろう。尚斗はまだ熱い頬に舌打ちをして、ドアノブを捻る。 「好きにしろ、バーカ」  そう言い残し、音を思い切り立てながら部屋に入った。灯りを付けていない部屋は真っ暗で何も見えないが、それを気にする余裕もない。  背中をドアに預け、ズルズルと床へと腰を下ろす。鼓動がドクンドクンと打つのが鬱陶しくてたまらない。 (なんだこれ)  胸元を押さえ、深呼吸を繰り返す。  いつもは喧嘩する単なるバカなのに、たまにこうやってこっちの心を覗いたり計算高い策略を縫ってくる。  長い付き合いなのだからそんなもの慣れてるし、お前そんな奴だった? とか思わない――――それなのに。 (なんでこんなドキドキしてるんだ俺っ)  そんななか、リビングでひとり取り残された彼がまるで悪魔のように「ははっ、かーわい」と呟いたことを知らぬまま、尚斗はままならない自身に舌打ちを打っていた。
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