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ふたりの光 第一話
「今は生きることだけでも厳しい時代なのだから」
賢(さかし)ら気に、そういってみせる人は、さぞかし立派な半生を送っているのだろう。だが、生活に余裕のない人の口からは、そんな言葉は絶対に出てこない。この厳しい社会において、実際に、その矢面に立たされている人々は、そんな言葉を聴かされるだけでも辛いはずだ。中途半端に稼げる人は、社会の上層からは無能扱いされ、下層からは妬まれた挙句に強い非難を受ける。「あいつらは貰い過ぎだ」と。もしかすると、一番辛い思いをしているかもしれない。他人が自分を戒めるために、こちらに投げてくる助言の数々は、どれも胸に突き刺さって、どんどんと深くめり込み、心傷(トラウマ)に達して、新卒の頃は、すでに人間関係を拒絶するまでに至っていた。
そんなとき、自分と同じように派遣社員として働いていた同僚の中に、彼女を見つけた。ふたりとも厳しい半生の中で、その心には、すでに深手を負っていた。彼女の人懐っこさと生来の明るさは、その頃の私にとって、どれほどの慰めになったか分からない。しかし、たった一年半ほどの付き合いにおいて、互いの道は自然と分かれていき、一度は離れることになった。彼女にはその頃すでに他の恋人がいたことも知っていた。私が新しい仕事に就く中で、もう何度目かに、同じような辛い状況に直面したとき、再び彼女に出会うことになった。あれから十年近くも経っていたが、互いに一目で相手を認識していた。それは、とある駅のホームだった。だが、語り合ってみても、なかなか明るい話には行きつかない。苦しみ抜いた人生の中で、ふたりはさらに傷ついていた。何とはなしの出会いだったが、ふたりとも自分の辛さを語り合える相手を探していたのは事実だった。彼女は今度は私の家を足繁く訪れるようになった。ちょうど、桜の咲く季節だった。
同じ職場の仲間として、過ごしていた頃は、その無邪気さと奔放さに振り回されていた。十年という歳月が、彼女に過分なほどの冷静さと余裕と落ち着きを与えていた。
彼女はいつも必要以上に私を評価したが、自分はそんな声援や慰めをほとんど必要としなかった。むしろ、必要以上の励ましを疎ましく思っていた。どんなに優しい言葉をかけられても、現状が変化していくわけではない。ただ、聞き手がいてくれるだけで十二分に助かっていたということもある。ただ、こちらの素っ気ない対応が、彼女の気に食わなかったのだろう。しつこく、何度でも、私の気持ちを盛り上げて返事を得ようとしていた。「それはね、言わなくてもいいことなんだよ」と暗に告げたこともあった。自分の感情を抑えるためではなく、単に、私を思いやってそう告げていたのだろう。仕事後の疲労時は、こちらの不機嫌や暴言に対して、あからさまに嫌な顔をしたこともあった。それでも、彼女はそういった声かけをやめなかった。こんな自分に自信をつけさせたいのか、それとも、何か他の狙いがあるのかは分からなかった。
事態にどれほどの変化が起きたとしても、ふたりが豪華な暮らしを望むことはなかっただろう。もちろん、当時は使えるお金にかなりの制限があったからだけれど、家の近所をとめどなく散策しながら、珍しい花や鳥や雲を眺めて、それだけでふたりは満足することができた。海外への旅行や高いホテルに泊まりたいなどとは、どちらとも思ったこともなかった。もちろん、彼女はあの時分よりも、相当に無口になっており、その気持ちは計れなかったのだが。ただ、私がそのように思って評価していることを、向こうも感づいているような気はした。連絡を頻繁に取り合うようになって自然と会う回数が増えていっても、ふたりにできることは散歩や映画や簡素な食事、それくらいのことだった。世間一般の男性のように、高い給料をつぎ込んだプレゼントや、遠出の豪勢な旅行を差し出してやれない自分を、そして、頼もしい男を演出できない自分を、とても情けない人間だと思うようになっていた。次第に、彼女の喜ぶ姿を欺瞞ではないだろうかと、勘ぐるようになっていた。その頃の自分の職場での境遇が余りにも悪かったので、自分の存在が哀れすぎて、他人の気持ちにまで、余裕を持つことができずに、そう考えることしかできなかったのだ。
自分の家の周囲は静かで人通りが少ないから、この辺りを散策するのが好きなんだと語って聴かせたとき、彼女は文句のひとつも言わずに、いつもすぐ後ろに付いてきてくれて、なぜだか、とても、にこやかにしていた。『君にもこの平穏な道をのんびり歩く楽しみを知ってもらいたい』などとは、とても言えなかったけれど、彼女がもし、僕の心を知っていてくれたのなら、今でも、とても嬉しく思う。だけど、今はもう確認することはできない。果たして、どうだったのかな。
自分は人より弱い人間だった。だけど、ずっと強がって生きてきた。他人には弱みを見せたくなかった。ふたりで色んな話をしたけれど、彼女が僕の嫌いな話(過去のトラウマや孤独感)に触れることは、ただの一度もなかった。現在の職場における、どうにもならない人間関係に悩んでいても、それを探ろうとする素振りすらしなかった。そもそも、こちらの気持ちに興味さえないのではと、疑ったことすらあった。しかし、つまらない話しかできない自分との会話に素直に笑ってくれる彼女の表情には、どんな悪意も見い出せなかった。
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