最後の夏

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「親父が倒れて、俺も手術することになって、兄貴は店を続けるために大学やめて、なのに俺は高校に行かせてもらって、野球もやらせてもらって、この上私立の大学に行って野球やりたいなんて…」 でも、そうは言ってるけど、先輩は野球をやりたいに違いない。 「先輩、一男さんはそのことを悔やんではいないと思いますよ。だって、あんなに楽しそうにお店で働いてるじゃないですか。可奈子さんと奈々子ちゃんととっても幸せそうです。それに、先輩が野球を続けること、すごく応援していて、すごく望んでいると思います。先輩の夢はもう一男さんや可奈子さんや道子さんや大将、みんなの夢なんだと思うんです」 私は先輩の横に立った。 「だから、受かるかどうかはわからないけど、受けないであきらめたりしないでください。それはみんなが望んでいることじゃないと思うから」 私は先輩を見上げた。 「そうか」 先輩は海を見ていた。 「ひなは?」 先輩が言った。 「ひなはいいのか?」 私は先輩を見た。先輩も私を見ていた。 「私は少し寂しいけど、大丈夫です。野球をしてる先輩が好きだから」 私は少し無理をした。寂しいのは少しじゃなくて、ものすごくだったから。 「わかった。受けるよ」 先輩は心を決めたようだった。 「でも、受かるかどうかはわからないけどな」 先輩はそう言って笑った。 「受からなかったら、普通に大学受験すればいいだけですよ。それもだめだったら、私と一緒に受験すれば同学年になりますよ」 私は笑ってそう答えた。先輩も笑ってくれた。 「帰るか」 「はい」 何気なく答えたつもりだったが、声が震えた。 「ひな?」 先輩が振り返った。いつのまにか私の目に涙が溢れていた。 「大丈夫じゃないじゃないか」 そう言われて、更に涙がこぼれた。 「大丈夫です。大丈夫なんだから…」 もう涙を止められなかった。 先輩は私をぎゅっと抱きしめた。 「やっぱり、やめるか」 私は驚いて先輩を見上げた。 「だめです。そんなの」 「だめか?」 「だめです。私、先輩に野球やっててほしいです。大学野球で活躍してプロ野球選手になってほしいです。それで、沢村賞とって、三冠王もとって、メジャーに行って、それから…」 私はできるだけたくさんの希望を並べたてた。 「それは無理だろう」 先輩はそう言って笑ったが、私は本気でそうなると信じていた。 「先輩なら大丈夫です。大学もきっと受かります」 私の涙は止まっていた。 「うん。がんばってくるよ」 先輩は私を離した。 「あの…」 私は歩き出した先輩を呼び止めた。 「どうした?」 先輩が振り返った。 「えっと、あの、大丈夫なんですけど…もう少しだけ…」 もう少しだけ、ぎゅってしてください そう言いかけた。でも、言い終わる前に先輩は私を強く引き寄せて、その胸にぎゅっと抱きしめてくれた。 「もう少しと言わずに、いつでもどこでもしてやるよ」 「どこでもは恥ずかしいのでやめてください」 「俺は恥ずかしくないぞ」 私は無理だとわかっていても、ずっとこうしていられたらいいのにと思っていた。 静まり返った夜の海で、先輩の胸の鼓動と波の音だけが聞こえていた。 夏は終わろうとしていた。
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